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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 紙碑 <1> 「絶後の記録―広島原子爆弾の手記」 1948年刊 亡き妻の体抱き寝た

 小倉豊文さんが著した「絶後の記録」は翌1945年8月7日夜、収容されていた広島市郊外の府中国民学校で見つけた妻文代さん=当時(37)=のとぎれとぎれの言葉から始まる。

 「ピカッと、とても巨(おお)きな稲妻が光ったと思つたの、それから、なんにもわからなくなっちゃったの。福屋の前で…」。いち早く出版された原爆手記は、あり合わせの紙に3カ月後から書き続けた「亡き妻への手紙」であった。

 「8月6日」、小倉さんは府中大川に架かる大州橋のたもとで閃光(せんこう)を体験する。当時45歳。広島文理科大(現広島大)で日本史が専門の助教授だった。妻や次男と舟入幸町(現中区)に住み、高師付属国民学校の長男と長女は西城町(現庄原市)の寺に学童疎開していた。

惨状を克明に描く

 「絶後の記録」は、人間が一瞬に「生きた屍(しかばね)」となった広島デルタで妻子を捜して目撃したさまを克明に描く。何とか連れ帰った地御前村(現廿日市市)の親族宅で逝った妻の最期も冷静な筆致で記す。

 爆心地から約710メートル。福屋百貨店の前で閃光を浴びた文代さんは、子どもの食糧やおやつを気に掛けるうわごとを繰り返し、「8月19日」に死去した。

 通夜は、小倉さんが若いころから心酔した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を子どもと合唱する。そして「普通に寝るように親子五人が並んで寝たよ。俺は夜の明けるまで、お前の硬直したつめたいからだを抱擁していた」と書き留めている。

 「姉と僕が叔父に連れられ疎開先から戻ったのは18日でした」。長男敬一さん(78)=千葉市=を捜し訪ねると、小倉さん親子のその後も気さくに語った。

 姉和子さんは11歳、自宅近くで被爆した弟謹二さんは7歳(2002年死去)。二つ違いのきょうだい3人は46年春、現岡山県和気町に移り住む。父の教え子だった女性へ預けられた。帰省のたび目にしたのは、下宿先のミカン箱で書き物をする父の姿だった。

 東京の出版社から依頼を受け、書きためた「亡き妻への手紙」を原稿化。判明してきた被害状況や「残された恐怖」原爆症についても可能な限り記録を集めて入れた。「願わくは絶後の記録」との一節が題名となり48年11月に出版される。

 もっとも連合国軍総司令部(GHQ)の検閲をかいくぐるためだろうか、トルーマン米大統領の「日本国民を完全破壊からまぬがれしめるため」とした原爆投下の宣言を、初版はしがきは肯定的に引用している。

 被爆の壮絶なルポでもある「絶後の記録」は、たちまち翌49年3月までに6版を重ね、広島が全国一の移民県だった経緯から「海外輸出記念版」も出る。ハワイからは売上金16万円が広島の子どもたちへ寄せられるなど早くから評判を呼んだ。

 さらに雑誌「キング」50年8月号に載った短縮版の「妻の屍を抱いて」は、東西ドイツなどで翻訳出版され、ブルガリアやハンガリーでは新聞連載された。「おやじは『原爆は売り物ではない』と印税をことごとく寄付し、騒がしくなる8月6日は広島を離れていました」と敬一さん。

反核の遺志継いで

 家族の念願でもあった英訳は、94年に短縮版を、死去の翌97年に完全版が出た。享年96。遺体は敬一さんの母校の千葉大医学部に献体し、きょうだいは「雨ニモマケズ」を合唱して見送った。

 「母はなぜ殺されなければならなかったのか、僕が命を守る仕事に就いたのもそこからです」。敬一さんは父の郷里の千葉県で公衆衛生の道を歩み、「絶後の記録」を購入しては配る。版を重ねる中公文庫版の扉には「謹呈 亡父の反核の遺志を継いで 小倉敬一」と記してあった。

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 「紙碑」ともいえる「原爆手記」を手掛かりに、被爆70年となるヒロシマの意味を探り考える。

(2015年1月12日朝刊掲載)