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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ⑪ 越境する原爆映画・マンガ 表現の力 共感広げる

 1945年8月6日の原爆投下で、人間はどうなったのか、どう生きてきたのか。未曽有の惨状とそこからの願いは、さまざまな方法で表されてきた。とりわけ大衆文化の映画やマンガは、ヒロシマをめぐるイメージや記憶を形づくってきた。想像力をかき立てるからこそ世代や国境を越えて伝える力を持つ。一方で政治的な圧力や見方にもさらされてきた。越境する原爆映画・マンガの始まりやあつれき、可能性をみる。(「伝えるヒロシマ」取材班)

■映画 「ひろしま」「原爆の子」

市民協力 「あの日」再現

 月丘夢路さん(92)は、退院直後にもかかわらず文書で取材に応じてくれた。

 53年公開の映画「ひろしま」(関川秀雄監督)で、女子学徒とともに原爆の犠牲となる教師役を演じた。「広島出身である私は『何かの力になりたい』と願いました。その頃松竹専属の私が他社『独立プロ』への出演は難しく…」。自ら松竹の城戸四郎副社長に掛け合い、ノーギャラで出演した。

 生家は大手町(現中区)にあった「旭爪(ひのつめ)」薬局。袋町小から広島高女(現皆実高)へ進み37年に宝塚音楽歌劇学校へ。戦後は松竹のトップスターに仲間入りしていた。

 米軍が率いた連合国軍総司令部(GHQ)の占領期、映画も検閲を受ける。原爆の惨状を描くことは禁じられた。占領統治が明けた52年、「原爆の子」(新藤兼人監督)がまず広島でロケ撮影し、封切られる。

 少年少女の体験記を長田新広島大教授が編さんした「原爆の子」(51年刊)を原作に、近代映画協会をつくった広島出身の新藤監督が脚本も手がけた。乙羽信子さん演じる教員が被爆7年後の広島に教え子らを訪ねるストーリー展開で「原爆の恐怖」(公開パンフレットから)を描いた。

 作品はヒットし、53年のカンヌ映画祭に出品された。その裏で外務省は受賞を妨害しようとする訓電を現地に打っていた(89年公開の外交文書による)。

 体験記「原爆の子」は並行して映画化が計画された。それが、日本教職員組合が製作費をバックアップした「ひろしま」である。

 長田氏が寄せた言葉に映画「ひろしま」の特徴がみて取れる。「原爆の大量殺りくという場面を、思い切って描いている」

 広島でのロケ撮影は53年5月から24カ所で行われた。幼児から大人まで延べ8万8500人がエキストラ参加し、まさに地獄図のような世界を再現する。

 体験記を寄せた早志百合子さん(78)=安佐南区=は学徒役で参加した。「泥や墨を混ぜて顔に塗り川に入りました。生々しい記憶がよみがえったのを覚えています」。宇品中教師だった楠忠之さん(90)=西区=は「カンパや衣装の軍服を募ると市民は進んで協力してくれた」と振り返る。

 広島市や広島電鉄、東洋工業(現マツダ)など地元企業も全面協力し、月丘さんや山田五十鈴さん、岡田英次さんらスター俳優が出演した映画は8月に完成した。ところが、全国配給は各映画会社から断られた。

 理由は「反米的色彩が強すぎる」(中国新聞53年9月6日付)。米軍が原爆使用を公言した朝鮮戦争は休戦に合意したばかり。日本映画大学長の佐藤忠男さん(84)は「GHQの検閲を意識する空気を引きずっていた」と指摘する。

 「ひろしま」は自主配給となり、55年には米ニューヨークの劇場で上映され、ベルリン国際映画祭で長編映画賞も受けた。しかし組合製作の映画と政治的な見方がつきまとい、公開は限られた。日教組は84年に独立プロ名画保存会に普及事業を委託し、会は2005年にDVD化を図った。

 埋もれていた「ひろしま」だが今、再評価の動きが広がる。父が監督補佐を務めた小林一平さん(67)=東京都狛江市=らが08年から自主上映会を始めた。立命館大生たちと英語版DVDを作り、欧米の市民団体に上映も呼び掛けている。

 佐藤さんは「被爆者らが群衆となり視覚的な迫力を持つ『ひろしま』は、『原爆の子』とともに今ではもう撮れない原爆映画。進んで見てほしい」と求める。

 月丘さんは出演の折をこうも記していた。「被爆した多くの友人たちは残念ながら亡くなりました。そのさまは映画で再現致しました。いつまでも戦争を嫌がる心を私も含めて皆さんも持ち続けてほしいことを切に願いました」

 二つの原爆映画は古典であり新作でもあるのだ。

■マンガ 「はだしのゲン」「夕凪の街 桜の国」

少年のドラマ 21言語に

 「主人公のゲンは、僕自身です」。漫画家中沢啓治さん(1939~2012年)は「わたしの遺書」でそう書き残している。爆心地から約1・3キロで被爆し、父と姉、弟を失う。漫画家を志して単身上京し、ようやく73年に大手週刊誌で連載にこぎつけた。

 被爆後の広島をたくましく生きる少年の姿を描いた「はだしのゲン」である。だが、石油ショックのあおりで翌74年に減ページから休載に。再開した出版社の倒産もあり、完結をみたのは87年だった。商業的に「売れない」とされる原爆マンガにもかかわらず全10巻からなる「ゲン」の累計部数は今、1千万部を超えた。

 それだけにとどまらない。「日本の長編マンガで最も早く英訳出版された作品です」と、東京都武蔵野市在住の米国人翻訳家アラン・グリースンさん(63)はいう。「Barefoot Gen」を78年に海外へ紹介したグループの一人。

 きっかけは、仲間の日本人編集者が米ソの核配備競争が続いていた76年、米大陸を横断する平和行進に「ゲン」を携えたことから。各国からの参加者は絵を見ただけで衝撃を受けた。「知られていない核戦争の現実を世界へ発信しよう」と、日米の若者10人で「プロジェクト・ゲン」を結成。当時出ていた4巻までを翻訳して自費出版し、後にサンフランシスコやフィラデルフィアの出版社からも刊行した。

 さらに、石川県ロシア協会理事の浅妻南海江さん(72)=金沢市=らが同じグループ名を受け継ぎ、95年から全10巻をロシア語訳。全巻英訳も2004年から6年がかりで手がけ、各巻3千部を刊行した。

 「私たちに暗黒の歴史を忘れ去る権利はない」。海外からの感想の手紙を前に、浅妻さんは「『ゲン』は世界の物語だと認識されれば核状況も変えられる」と強調。ロシア語改訂版の刊行にも乗り出した。

 日本の戦争責任に険しい視線を注ぐ韓国でも02年に全巻出版され、予想を超える各巻1万5千部以上を売り上げる。図書館や学校も収めた。翻訳に努めた在日2世の金松伊(キムソンイ)さん(68)=大阪府=は「原爆が植民地支配からの解放をもたらしたという認識は根強いが、戦争そのものにあらがう普遍性が受け入れられている」とみる。

 とはいえ、日本との関係が出版に立ちはだかる。

 坂東弘美さん(67)=名古屋市=は、北京の中国国際放送局で働いていた時の同僚らと翻訳に取り組み、昨年に終えた。だが出版許可の見通しが立たず、台湾で目指す。「踏みつけられても前向きに生きる『ゲン』の姿が翻訳チームを突き動かせてもいます」

 「過激な描写が子どもに悪影響を及ぼす」。国内の小中学校で閲覧制限や回収措置に遭っても、「ゲン」は越境を続ける。あらためて調べると21言語に翻訳されていた。アラビア語訳もエジプト・カイロ大教授が進めている。

 広島市西区出身の漫画家こうの史代(ふみよ)さん(46)=東京都=が04年に刊行した「夕凪の街 桜の国」も世界へ広がる。

 被爆した女性の10年後と、その家族の暮らしを精緻に描いた連作は文化庁などの各賞を受け、出版元によると40万部を売り上げる。これまで8言語に翻訳され、各版とも1万部前後が出ているという。

 こうのさんは「読者が自分の友人が暮らす街の物語のように受け止めてもらえたら、という思いで描いた。原爆を体験していない人も伝える務めがある、と今は思うようになりました」と気負いなく語る。

 「ゲン」の越境について、作画のペン入れを手伝った妻ミサヨさん(72)=埼玉県所沢市=は「中沢のありのままの思いが伝わっているのでしょう」と話す。

 原爆の悲惨さだけでなく人間としての共感を呼ぶ表現が、ヒロシマを世界に押し広げている。

(2014年12月8日朝刊掲載)