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連載 被爆70年

[伝えるヒロシマ 被爆70年] 焼失母校 学びの証し 原爆で廃校 西高女の写真現存 卒業式など9枚

 原爆で廃校となった広島西高女の1944年の卒業写真など9枚が現存していた。校長だった佐々木佐市さん(1880~1965年)が残し、孫の一朗さん(76)=広島市南区段原日出町=が受け継ぐ。現西区東観音町にあった西高女は45年8月6日に全壊全焼し、資料も焼失した、空白の学校史を埋める記録でもある。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 卒業写真(縦13センチ、横19センチ)は、セーラー服にもんぺ姿の生徒と佐々木校長ら教職員の約140人が校舎を背に納まる。裏面には、南区にあった陸軍運輸部による「検閲済 (昭和)19・3・14」の検印と、万年筆で「昭和十九年三月卒業」と書かれていた。

 佐々木さんは39年から45年4月まで校長を務めた。40年の卒業や臨海訓練、付属幼稚園の写真もあった。校長を退き、一朗さんたち孫2人を連れ郷里の久地村(現安佐北区)に疎開した際、一連の写真を携えたとみられる。

 「よく残してくださった」と、44年卒業生の石川清子さん(88)=西区己斐中=は言う。自身も卒業写真は持っていない。原爆死した親友、長石須磨子さんの姿を指でなぞり、「塚本町(現中区堺町)の自宅で下敷きとなったそうです」と声を詰まらせた。

 石川さんは卒業後は、挺身(ていしん)隊として日本製鋼所(現安芸区)へ向かう途中の広島駅で被爆した。後輩は小網町(現中区)一帯の建物疎開作業などに動員され、生徒217人、教職員3人が亡くなった(「広島原爆戦災誌」)。西高女は戦後、流れをくむ法人がなく、校史も刊行されていない。

 石川さんは「原爆で奪われた母校の存在を、これらの写真で少しでも知ってほしい」と願い、一朗さんは「祖父の思い出の品として保管してきたが、広島の歴史資料でもあり公的機関に託すことも考えたい」と話している。

(2015年7月26日朝刊掲載)