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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <7> 爆心地の我が家 少女2人 支え合った

 少女2人が川岸で顔を覆い、焼けただれた人影が見える。対岸と結ぶ木橋は半ば落ち、廃虚が広がる。広島市中区の平和記念公園となる中島地区と一帯の1945年8月8日の光景だ。

 「あなたの励ましがなかったら、どうなっていたか…」。大西安子さん(83)=高知県土佐清水市=は、絵に描いた元安川左岸に立つと思わず涙ぐんだ。「お互いこうして元気なのが一番よね」。69年前も一緒だった、鵜川久代さん(83)=広島市東区温品=は級友の肩に優しく手を添えた。

 川岸の少女は、共に女学院高女2年で中島地区で生まれ育った。大西さんの生家は材木町で「丸善」酒店を、鵜川さんは中島本町で扇子を扱う「丸子多三郎商店」を営んだ。動員先も同じ第二総軍司令部(現東区二葉の里)だった。

 45年8月6日、2人は暗号班が置かれていた司令部の木造仮設で下敷きとなる。街中を包む火炎が収まり許可が出た8日朝、一緒に中島へと向かった。

 「遺体が流れる川面を前にお互い一言もしゃべらなかった」「戻った司令部で抱き合ったね」。2人はこもごも顔を見合わせた。

 大西さんは、父畦田善四郎さん=当時(50)=と母マサコさん=同(42)、妹桂子さん=同(7)、元子さん=同(5)=を、鵜川さんは、父丸子健造さん=同(54)=と日銀広島支店勤務の姉芳枝さん=同(21)=を失った。

犬の置物の励まし

 独りとなった大西さんに、鵜川さんは犬の小さな置物を手渡した。級友が「犬を飼いたい」とよく話していたからだ。大西さんは、鵜川さんの親戚宅や、近所の知人の避難先を転々とした。「夢遊病者のようにさまよっていました。飢え死にしなかったのは皆さんのおかげです」と語る。

 やがて復員してきた兄と再会でき、10月ごろ伯父がいた兵庫県へ。その後は看護学校に進み、姫路市内の病院に勤務。そこで知り合った歯科医と結婚して58年、開業する夫の郷里である土佐清水市に移り住む。医院の事務をしながら2男1女を育てあげた。

 原爆をめぐる話は家族にも口をつぐんだという。「あの日」履いて出たげたの鼻緒を大事に持っていたのが、看護学校の寄宿舎でからかわれた。ピンクの鼻緒は母が前日に作ってくれた思い出の品。それなのに焼き捨ててしまった。

 「私は土佐弁でいうびったれ(臆病者)なのか、体験と向き合う勇気がなかった」と振り返る。それでも古里の広島は恋しく86年に鵜川さんを訪ねた。

 「原爆の絵」の募集を知ったのは2002年。初孫も大きくなり、「生かされている」思いが年々強くなった。脳裏に焼き付く廃虚と、幼いころの遊び場で屋台が門前に立った材木町・誓願寺境内を水彩画に描いた。原爆資料館で翌年に展示され、鵜川さんは連絡を受けて足を運んだ。

 「あのときの私たちだと見てすぐに分かった。ありがとう」。28年ぶりに再会した級友に感想を直接伝えると、大西さんは「私こそ」と犬の置物をかばんから取り出し、感謝の気持ちを何度も口にした。

私の記憶を後世に

 市民が描く「原爆の絵に」ついて、大西さんは「原爆のむごさを完全に伝えているわけではない。私の絵も個人的な記憶で写真のように正確でもない」という。同時にこうも捉えていた。「記憶は残さなければ消えてしまう。描くことで犠牲者を忘れない供養となり、写真では伝え切れない何かを後世の人も感じてくれるかもしれません」

 原爆をめぐる記録・記憶画である「原爆の絵」は今、4504点が資料館ホームページで見られる。核兵器が人間にもたらす世界を学び、知ることができる。(おわり)

 この連載は「伝えるヒロシマ」取材班が担当しました。

(2014年10月20日朝刊掲載)