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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <6> 消し去られた家族 妻の遺体 腹帯で確認

 広島市安佐北区深川に住む土井美代子さん(84)は、中区の平和記念公園を訪れるたびに心がざわめく。生まれ育った「材木町跡」と刻まれた石碑が芝生広場の東側にある。だが、市民も観光客もほとんどが気づかずに素通りする。

生き残っても「地獄」

 「人情味あふれる町がここにあり、どうなったのかが、今どれだけ知られているでしょうか…」。自身は家族7人で、父の古里でもある材木町78番地で暮らしていた。それが1945年8月6日の原爆投下で一変した。「生き残った者もこの世の地獄を見ました」

 今もそうとしか表しようがない世界を、父の三好茂さん(1904~80年)は描いた。NHK中国本部(現広島放送局)が74年から募った「原爆の絵」に応じた。原爆資料館は市民による一連の絵を所蔵し、ホームページで発信するため2002年、作者や遺族へ了解を求めた。土井さんはその折に父が残した8点の絵に初めて接したという。

 「母の絵はむごくて、父から生前に見せられたことはありません」

 その絵には「臨月の為(ため)腹に巻いていた腹帯が残っている 両手両足なし 白骨の頭蓋骨」との添え書きがある。三好さんが被爆の翌7日、自宅跡で見つけた妻ヨシ子さん=当時(37)=の姿であった。

 三好さんが寄せていた「被爆体験―私の訴えたいこと」(77年刊)によると、6日は舟入幸町(現中区)の勤め先から元安川沿いに材木町を目指す。焼け落ちた家屋の残り火のため川辺で夜を過ごし、翌朝、「毀(こわ)れたバケツを拾い水をまき(略)涙をこすり、こすり」自宅辺りにたどり着く。

 一帯は白骨が「共に砕けて誰が誰かはっきり分からない」中、腹帯から妻だと確認した。さらに次女で袋町国民学校高等科1年の登喜子さん=当時(13)、長男で中島国民学校4年繁治さん=同(9)、三女で同1年博子さん=同(6)、四女操さん=同(3)を捜した。

 土井さんは長女で広島女子商2年だった。動員先の福屋百貨店7階、広島貯金支局分室で被爆した。爆心地から約710メートルだったが、九死に一生を得た。

 「父と妹に再会できたのは海田町の救護所でした」。避難した五日市町(現佐伯区)の親戚宅から12日、包帯姿に桃を携えて向かった。妹は「お母ちゃんは?」とか細く尋ね、「もうすぐ来るからね」と答えるしかなかった。登喜子さんは14日に息を引き取った。弟と下の妹2人は遺骨すら見つからなかった。

手記表し祈念館に

 戦後、父は、かつて勤めた鉄工所が社長の原爆死で苦境に陥ったのを知り、再建に当たる。社長の長女と再婚して男児2人を授かる。土井さんも鉄工所を継いだ社長の次男と家庭を持った。

 工場が軌道に乗り始めた52年、原爆慰霊碑が平和記念公園で除幕される。父と娘の土井さんは一緒に訪れることはなく、公園建設で南側に移った淨圓寺(現中区中島町)への墓参を続けた。

 「新たに家庭を築いても町がきれいになっても、家族と古里への痛切な思いが消えず、描かせたのではないでしょうか」。膵臓(すいぞう)がんで逝った父の心情をそう推し量る。

 三好さんの「原爆の絵」には、家族を捜す中で見た惨状にとどまらず、元安川で泳いだ幼いころの情景もある。土井さんは資料館からの問い合わせで絵を見て、自らの被爆体験と、父が描かなかった登喜子さんの死を初めて手記に表した。

 「父と抱き合って泣く。たった一人生き残った妹だったのに。家族五人を亡くして、父と二人になりました」。そう結び、手記を集める公園内の原爆死没者追悼平和祈念館に納めた。

(2014年10月13日朝刊掲載)