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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <4> 学徒の兄弟 悲惨でも再会の喜び

 妙見法彦さん(84)=広島市南区向洋大原町=は「この灯籠を覚えています」と住吉橋の辺りを見回した。

 広島デルタを成す本川に架かる住吉橋の完成を記念して明治期に建てられ、今も東詰め近くに立つ石灯籠。その南手が、原爆で変わり果てた姿となった弟を見つけた場所だった。

 「国のために命を尽くす教育を受け、弟も同じ気持ちだったでしょう」。学徒動員が続いた戦時下へと記憶をたぐり寄せた。

 1945年8月6日も、松本工業学校(現瀬戸内高)4年生の妙見さんは三菱重工業広島造船所(同中区江波町)へ出た。国の「学徒勤労令」で工場への動員が連日続いていた。

 弟の義弘さん=当時(13)=は広島二中(同観音高)1年生だった。建物疎開作業に動員され、現在の平和記念公園と接する本川東岸に集合する。

 造船所正門近くで被爆した兄は、炎と熱風に覆われた市中心街を抜け、爆風でレールも曲がった稲荷橋電車専用橋をはって渡り、夕方に仁保町(同向洋大原町)の自宅へたどり着く。弟の姿はなかった。

名前呼ぶと「はい」

 2日後。義弘さんが住吉橋近くの仮救護所にいるとの言づてが届き、手作りの台車を押して叔父と向かう。6人きょうだいの長男。父は召集されていた。

 弟は救護テントで倒れていた。母が作った紺色の下着が見えた。「顔から右腕にかけひどく焼かれていましたが、名前を呼ぶと『はい』と答えました」

 連れ帰る途中、義弘さんは「水が欲しい」と言ったきり、言葉を発しなくなった。自宅で翌9日息を引き取る。その春に卒業した青崎国民学校(同青崎小)の校庭に運んで火葬した。

 妙見さんは戦後、洋服仕立て店で修業し、広島へ出店した天満屋で勤め上げた。「原爆の絵」を描いたのは新聞で募集を知った2002年。油絵を40代から始め、趣味で続けていた。妻のトシエさん(82)をはじめ子や孫に被爆を詳しく話したことはなかった。

妻に背中押されて

 いわば封印していたにもかかわらず弟の無残な姿ばかりか、造船所近くの江波山に逃げてきた人々、京橋川に架かる稲荷橋電車専用橋に流れ着く累々たる遺体…。記憶が鮮明によみがえり、時間がかかる油絵ではなく水彩で表した。

 自ら荼毘(だび)に付した弟の痛ましい姿に提出をためらうと、妻から背中を押されたという。「悲惨さの中に再会できた喜びがある。その言葉に励まされた」

 弟を描いた絵には、別紙にこう記して貼付した。「同級生旧二中生徒中川重之君のお母さんから生存場所の連絡を頂きましたことたいへん感謝しています」

 義弘さんと同じ1年5学級だった中川重之さん=当時(12)=は、やはり被爆3日後に佐伯郡内の救護所で亡くなっていた。遺族によると、息子を見つけて通り掛かったトラックに乗せた母キクミさんは、ほかの同級生を捜して臨終をみとれなかったという。二中1年生の犠牲者は実に321人を数えた。

 「中川君のお母さんから言づてがなければ、弟は行方不明になっていた。再会をかなえてくれた『母』だと今も思っています」。穏やかにそう語った。

 妙見さんの自宅には油絵による「原爆の絵」がある。提出後に7年越しで手掛けたという。崩れ落ちそうな県産業奨励館(原爆ドーム)や八丁堀一帯の廃虚の光景に戦闘帽をかぶった自身の後ろ姿を配し、戦火をイメージさせる朱色と犠牲者への追悼を込めた白で彩色する。

 「戦争の実態を知ろうとせず、平和に慣れすぎたなどと言っていると、また繰り返すのかもしれません」。油絵の裏には「十五歳の夏」と記していた。

(2014年9月29日朝刊掲載)