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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <3> 断ち切られた夏 校庭に黒焦げの級友

 被爆2日後の校庭だという。黒焦げの人影が焼けただれた柳の根元に倒れている。そばで立ち尽くすのは白島国民学校(現白島小)5年生だった作者自身だ。

 「あの朝まで一緒にいた級友たちのためにも描き残したかった」と、八木義彦さん(80)=広島市安佐南区安東=は語る。爆心地から約1・5キロの木造校舎で下敷きとなったが、九死に一生を得た。しかし父ときょうだいの家族5人を失い、人生は一変する。「原爆の絵」を描く気持ちになれたのは、還暦をとうに過ぎてからであった。

家族5人行方不明

 八木さんは広島市西白島町(現中区)で生まれ育つ。製麺業を営む父は、広島城の一帯に広がっていた陸軍各施設にも納め、母は原爆の前に病死していた。

 白島国民学校は当時、東白島町にあった。学校史によると、校舎1階は歩兵安芸部隊などの兵舎となり、集団疎開をしていなかった5、6年生と高等科生徒が2階を使っていた。

 1945年8月6日、倒壊した校舎からはい出た八木さんは、自宅へ向かった。一面がれきの中で親きょうだいの名を何度も呼んだが返事はない。火炎が迫り、祖母がいる三田村(現安佐北区)を目指した。

 2日後、父儀兵衛さん=当時(52)、姉の繁世さん=同(25)、民江さん=同(17)、咲子さん=同(14)、4歳の弟猛さんの5人の行方を求めて戻った。母校も全焼し、ハエが級友たちの遺体に止まっていた。

 被爆と家族喪失からの戦後は「食事もままならず、学校どころではなかった」と明かす。中国大陸から復員した長兄が勤め先を得たのを機に48年春、1年遅れで新制観音中に入ったが、学費が賄えず2年生でやめるしかなかったという。

 自転車修理から燃料店で石炭の運搬、食品卸会社と日夜ひたすら働いた。28歳で結婚し、一人娘を授かった。37歳で新興団地が広がる安東に住まいを建てた。

 この間も家族の行方を捜し続けた。広島市が68年から始めた、平和記念公園の原爆供養塔に眠る納骨名簿などの公開には必ず足を運んだ。区切りを付けたのは定年退職の翌年。被爆50年を迎えていた。東白島町にある菩提(ぼだい)寺の墓に父姉弟の名を入れて、「昭和二十年八月六日原爆死」と刻んだ。

 自らの体験を描いたのは、NHK広島放送局が中国新聞社などと「原爆の絵」を再び募った2002年。68歳になっていた。娘が子どものころ使っていたクレヨンを取り出し、人生をいったんは断ち切られた、あの夏を2点表した。

 その象徴が変わり果てた母校であり、家族を捜して目撃した遺体が三篠橋の下を流れる光景。「人間として生きる権利や尊厳を完全に奪われた」と別紙に書き添えた。死んだ級友たちを悼むとともに、生き残った者も筆舌に尽くしがたい思いをなめたからだ。

認定訴訟を率いる

 八木さんは今、原爆症認定の申請について国が08年に緩和した基準でも認められなかった広島訴訟原告団(27人)の団長を務める。76歳で心筋梗塞に陥ったが却下された。13年の基準改定で自身を含む9人は認定を受けたが団長にとどまる。

 被爆者団体には参加していない。しかし「引き受けた以上はやり通したい」と話す。却下されても着手金を賄えずに訴訟を起こせない被爆者がいるのを知った。「救済が必要な人ほど表に出られない。積極的な認定が要る」と訴える。

 「原爆の絵」を描いてからは毎年、地元の小中学校で証言を続けている。被爆からの歩みを胸に「学べる幸せを守るのは、次代を担うあなたたち」と呼び掛ける。これまで受け取った感想の手紙は1500通を数えるという。

(2014年9月22日朝刊掲載)