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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <2> 届けられた一枚の絵 追悼のペン 市民共鳴

 市民が描く「原爆の絵」。それは被爆から4半世紀を過ぎ、一人の老人が描いた1枚の絵をNHK中国本部(現広島放送局)へ持ち込み、全国へと広がった。小林岩吉さんといい、原爆で妻と一人息子を失っていた。広島は高度成長を歩み、原爆体験の「風化と断絶」がいわれていた。

「死ぬまでに残す」

 小林さんは1974年5月15日、同本部を訪ね、「昭和二十年八月六日午后(ごご)四時頃萬代橋フキンノ状況」と添え書きした絵を受付に示した。当時76歳。「お預かりします」との言葉に、げた履き姿の老人は納得せず、若手ディレクターが面会した。

 「切々と話す鮮明な記憶と、込められた思いに衝撃を受けました」。後にNHK放送総局長を務めた原田豊彦さん(67)は出会いをこう語った。入局5年目。広島が初任地だった。

 画用紙にサインペンで描いた絵は、小林さんが妻子を捜して爆心地から約880メートルの萬代橋の一帯で目撃した光景。「まぶたに焼き付いて離れん」「死ぬまでに描き残そうと思うた」と説明したという。

 原田ディレクターは、小林さんの絵を取り上げる番組作りに動いた。先輩からは「原爆の絵」を募るキャンペーンが提案された。そして6月8日、朝のローカル枠で「届けられた一枚の絵」(15分)を放送する。

 番組で、小林さんは「焼トタンヲカブッタハダカノ娘サン」とも絵に書き添えた「あの日」の記憶を語った。峠三吉の「原爆詩集」の表紙絵などを描いた画家の四国五郎さん(今年3月に89歳で死去)も出演し、「うまく描けなければ文字で補って」と呼び掛けた。

 募集した「原爆の絵」は持参や郵送で次々と届き、キャンペーンは反響を呼ぶ。翌75年8月6日には、「市民の手で原爆の絵を」(45分)が全国放送され、2年間で758人から計2225点が寄せられた。

 原田さんは「追悼の念を込めて体験を素朴に描いた小林さんの絵が1枚目だったからこそ『私も』と、どんどん広がった」と振り返る。「原爆の記録映像は限られ、その空白を市民の手で埋める試みが『原爆の絵』です」と活用を願う。

証言活動 晩年まで

 「原爆の絵」のきっかけをつくった小林さんは、高校生らによる「原爆瓦」の収集活動にも協力していた。瓦を使った「原爆犠牲ヒロシマの碑」が82年に元安川東岸に建立されると、除幕式で遺族代表として証言もしていた。

 「活動を応援する手紙が届いたのが縁です」と事務局長だった山下希昭さん(81)=広島市安佐南区=は言う。原爆の傷痕が街の整備とともに「何もかんもきれいさっぱりのうなっていく」としたためていた。

 小林さんの手記を収めていた「流灯」(71年刊)や市の記録などによると、戦前は家具製造店を営み、市中消防隊に従事していた。

 45年8月6日は広島鉄道局検車区に臨時工として出た広島駅の近くで被爆。妻キシノさん=当時(38)=と大手町国民学校3年だった幸雄さん(年齢は12歳との記述もあり)の遺体を5日後、大手町7丁目(現大手町3丁目)の自宅近くで見つけたという。

 広島原爆病院で直腸がんの手術を受けた68年には、当時の広島大原爆放射能医学研究所などの「爆心復元運動」に触発され、被爆前の広島デルタの街並みや主な商店などを書き込んだ手書き地図を作っていた。

 戦後は指物師で生計を立て、晩年まで修学旅行生に証言していた。91年、東区の原爆養護ホーム「神田山やすらぎ園」に入り、その半年後の11月に亡くなっていた。享年93。小林さんの「原爆の絵」は原爆資料館に7点が収められている。

(2014年9月15日朝刊掲載)