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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 原爆を描く <1> 火炎の中の父子 看板絵師 鎮魂の肖像

 血だらけの男性と少女2人が身を寄せあって、火炎の中を歩く。いずれも素足だ。一部が破れた粗い紙の左上には「昭和廿年八月六日午前九時」と記されている。

 制作者は武永三太郎さん(1897~1963年)。「胡町の自宅から脱出して逃げる父と姉、末の妹です」と、次女舜子(きよこ)さん(83)が教えてくれた。生まれ育った広島市胡町(現中区堀川町)に今も娘家族と住む。

 武永さんが、がれきに覆われていた胡町にバラックを建て舜子さんと四女と戻った翌46年春には、この水彩画はできていたという。

妻と娘2人を失う

 妻シンさん=当時(43)=の遺骨は見つからず、広島女学院専門学校1年だった長女堯子(たかこ)さん=同(17)=は被爆当日に、建物疎開作業に学徒動員された女学院高女1年の三女瑛子(てるこ)さん=同(12)=は17日後に亡くなった。

 火炎の中の父子を描いた水彩画は「8月6日」の記録画であり、鎮魂の肖像画でもある。

 武永さんは現在の安佐北区大林の出身。神戸市の洋画家の下で修業して戻り、27歳の年に愛称の「たけさん」を冠した看板店を創業。広島を代表する繁華街の胡町に店舗兼自宅を構えた。広島商工会議所の「商工人名録」(37年刊)に営業種目は「和洋劇画」と記載している。

 市内で22館を数えた映画館などの看板絵師として人気を博した。「弟子も10人近くいました」と舜子さん。戦後に広島画壇をリードする武永槙雄さん(13~97年)は、兄の看板店で働きながら洋画家を志した。

 子どもは女児4人。自宅にはオルガン2台と蓄音機を備え、音色が途絶えなかった。店を譲った槙雄さん一家が疎開後も、胡町にとどまる。被爆前は95世帯、380人がいた町内会長を務めていた。

 「あの日」、武永さんは自宅のはりの下敷きとなった長女堯子さんと四女裕子さん=当時(6)=を助け出し、3人で火炎の中を逃げた。爆心地から東に約800メートルだった。長女は泉邸(現縮景園)で息を引き取る。しかし混乱のうちに遺体は分からなくなった。「姉はオルガンも絵も本当に上手で…」。女学院高女3年の舜子さんは動員先で八丁堀(同中区)にあった広島財務局で被爆したが助かった。

けがした手で絵筆

 生き残った父と娘2人は大林村で療養した。父は「早う描かんと忘れそうだ」と言い、けがをしていた右手で絵筆をとった。舜子さんは、鮮烈な水彩画を焦土のバラックで見せられたころの写真を持つ。胡町に建てた木碑の前でぬかずく一家が写る。

 碑は「嗚呼(ああ) 武永母子之墓 昭和二十一年五月二十五日 父三太郎建立」と読める。水彩画は母子3人の一周忌を前にした供養でもあったのだ。

 原爆を描いた絵は、帝展に16歳で入選した洋画家福井芳郎さん(12~74年)の「原爆記録画」をはじめ被爆した地元画家たちから始まった。だが、最も早い時期の一つでありながら、武永さんの絵は今もほとんど知られていない。

 武永さんは戦後は古美術店を営み、全壊全焼した胡子神社の再建に尽力して総代も務めた。食道がんのため66歳で死去した。

 「ありのままの記憶と悲しみを描き残そうと、急いで筆をとった作品ですが、多くの人に見てほしい」。舜子さんは仏壇のそばに置いていた父の形見の作品を12年前に原爆資料館へ託した。広島の街を彩った看板絵師がいたことを知ってほしい。その願いも込めていた。

 原爆をめぐる記録・記憶画である「原爆の絵」をあらためて読み解く。

(「伝えるヒロシマ」取材班)

(2014年9月8日朝刊掲載)