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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ⑧ 原爆を描く 「あの日」 時を超えて

 被爆した人たちが自らの体験や目撃した光景を描く「原爆の絵」。1945年8月6日の米軍による原爆投下で強いられ、脳裏に焼きついた惨状を表した絵は、原爆をめぐる記録・記憶画である。広島の壊滅直後から描かれていた。近年は被爆証言を基に高校生たちが絵筆をとるようになった。広島市の原爆資料館は、寄せられた4972点を所蔵している。ヒロシマを描いた新旧の絵を通じ、被爆の実態や込められた思いを追った。(「伝えるヒロシマ」取材班)

1ヵ月後の廃虚

聾者の画家「後世に残す」

 広島の空に不気味にわき上がる原子雲、廃虚と化した八丁堀や中島、舟入地区、無残な姿の県産業奨励館(原爆ドーム)…。ザラ紙に描かれた原画18点が、2008年に資料館へ寄せられた。廃虚で絵筆を走らせる作者の姿は、広島へ入った米軍カメラマンに撮られていた。

 高増啓蔵さん(1901~85年)が描いた。県立聾(ろう)学校(現中区吉島東、広島南特別支援学校)の美術教諭だった。雅号は「径草」という。

 「きのこ雲は、聾学校が疎開していた吉田町(同安芸高田市)から、廃虚の17点は父に付き添って広島を歩いたときのものです」

 寄贈した長男文雄さん(78)=千葉市緑区あすみが丘=を訪ねると自らの「昭和二十年」日記を開け、父の行動や思いを詳しく語った。未曽有の混乱のさなか子どもを連れ、障害を押してなぜ、そこまでしたのか。文雄さんが保存する絵巻物で残した関東大震災の体験ともつながっていた。

 高増さんは東京に生まれ、幼いころ事故で聴覚を失った。相手の口の動きを読み取り、声で伝える「口話」を学び、日本画家を志す。死者約14万人が出た23年の大震災では渦中の光景を絵巻ものにした。官立東京聾唖(ろうあ)学校師範部を卒業した25年、広島へ赴任した。

 「母カメヨは原爆の前年に病死し、(45年4月に)聾学校が疎開となったので私と姉を吉田町へ連れて移ったんです」。児童生徒は98人が集団疎開し、町内の3カ寺に分散した。

 「8月6日」の日記には「ぞうりを作つてゐるとぴかつと光つて音がしました」とある。広島から約45キロ離れた地でも閃光(せんこう)を感じた。山並みの向こうにわき上がる「もも色」の原子雲を、父の高増さんは学校で使っていたザラ紙の裏に描いた。

 壊滅した広島へ2人の子を伴い入ったのは14日。爆心地から南約2・7キロの聾学校と近くの自宅は延焼を免れていたが、校庭には運び込まれた負傷者の血の塊が続いていた。そして、墨つぼや画板も持参して再び向かった。文雄さんの「9月9日」の日記から―。

 「広島えきの繪をお父さんが書かれました。それから四方の繪を書いてゐられるとアメリカの新聞社がお父さんの所へ来て、三べんしやしんを取(撮)つてアメリカ式のけい禮(れい)をして…」

 あらためて調べると、撮影者は米海軍に従軍し、60年代には著名な写真家集団「マグナム」会長を務めたウエィン・ミラー氏(18~2013年)だった。写真誌「ライフ」派遣のカメラマンと一緒に入っていた。

 文雄さんは、疎開先での買い出しでも父の口話を通訳していたが、原爆による廃虚を描くに当たり「万一の場合に備えて」付き添った。「おやじは米兵を見て、僕に『隠れろ』と言いました」

 高増さんは、ろうあの友人が関東大震災の直後に憲兵からスパイとみなされて銃殺された記憶が強く残っていた。命懸けで挑んだ「原爆の絵」でもあった。

 一連の原画は「原爆スケッチ画」と題して復興のつち音が高まる54年8月、旧中国新聞社ホール(現中区胡町)で展示した。描き直した本画を原爆記念館(同原爆資料館)へ寄贈した。

 高増さんは晩年にも記憶に焼きつく廃虚の「原爆スケッチ画」を描いていた。文雄さん家族と都内で同居し、83年に入院先で描いた1枚に、こう書き添えた。原爆が「悉(ことごと)く無残に破壊した光景を永久に後世に残そうと 息子を連れて三日間スケッチした」と。

 長女の田丸歌子さん(81)=中区吉島町=は広島ろう学校教諭となり、今は原画のカラーコピーを携えて証言活動に取り組む。「父は死んでも絵は生きている」。思いを受け継いでいた。

記憶のリレー

高校生「私も苦しくなった」

 被爆者と高校生が時を超えて「1945年8月6日」を油絵に描いた。その一枚は「忘れられない~あの目」という。児玉光雄さん(81)=広島市南区宇品海岸=が証言し、富田彩友美さん(20)が基町高3年だった一昨年に完成させた。

 「私の気持ちをよう受け取ってくれた」。児玉さんは8月、東京から帰省した富田さんの求めで再会し、油絵を証言活動に生かしていることを伝えた。東京芸術大2年となった富田さんは「先端芸術表現」を専攻する。「被爆を乗り越えてきた児玉さんの今を肖像画にしたい」と構想を持ちかけた。

 2人の出会いは、基町高創造表現コースが2007年から続ける生徒が被爆者の話を聞いて絵にする取り組みを通じて。ヒロシマの継承という狙いもある。これまでに56点が描かれた。

 富田さんは呉市焼山の出身。親族に被爆者はいない。「中学の平和学習で生の証言を聞いた」くらい。ちょっとした関心が背中を押した。取り組みに協力する原爆資料館の仲介で証言活動をする児玉さんとペアを組んだ。

 児玉さんは、正門が爆心地から約800メートルの広島一中(現国泰寺高)で被爆した。1年生だった。同級生320人のうち288人が校舎や市役所近くの建物疎開作業先などで死んだ。

 「若い人に伝えたい」。児玉さんは会社員時代に大腸がんを患い、計19回の手術を克服しながら証言を続ける。当初は、高校生と「原爆の絵」を共作するのに迷いもあったという。自ら描くのは「心が砕けそう」と思っていたからだ。

 復学した一中で戦後、美術部に所属した。絵は描くのも鑑賞も好き。だが「原爆はあまりに惨めで哀れ。とても描けんのう」と、「同じように生き残りと呼ばれていた」部員の片岡脩(しゅう)さん(1997年死去)と語り合った。同級生だった。後にグラフィックデザイナーとして名をはせた片岡さんは、ヒロシマをテーマにしたポスターの画風は抽象性を重んじた。

 「共作」の制作期間は約半年。児玉さんは高校での面談に加え、富田さんを自宅に招き、被爆体験を5回も6回も話した。富田さんも肌身に感じようと、児玉さんの手記を読み、質問をぶつけた。下描きを見せ感想を尋ねては、何度も描き直した。

 「忘れられない~あの目」は、12歳だった児玉さんが倒壊した校舎からはい出て、逃げる途中の千田町(現中区)で、塀の下敷きとなって助けを求める中年女性に足をつかまれた光景を描いた。

 「女性の手を振り払ったのを今も悔やむ」「女性の表情は『恐怖』だけじゃなかった」。赤裸々な証言が、富田さんには強く印象に残った。女性は家族にどうしても会いたかったのかな―。想像して描き直すうちに「児玉さんと女性の感情が入り交じり、私も苦しくなった」という。

 絵ができあがってからは、児玉さんは証言の折に画像を会場で映す。「多くの同級生を原爆死に追い込んだ戦争の不条理さ、一般市民がこんなひどいことになるというイメージを若い人たちに持ってほしい」

 富田さんはこう受け止めていた。「70年近く前の光景をありのままに写実するのは難しい。でも証言に耳を傾けて絵を描くと、感情を追体験できる」。描いた絵が見る者に追体験を促す「感情の懸け橋」になることを願う。

 もう一人の作者である児玉さんは「胸に詰まっていた思いが若者の手で開かれ、形に残る」と、新たな「原爆の絵」に意義をみる。富田さんの後輩と再び「共作」に挑むつもりだ。

(2014年9月8日朝刊掲載)