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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ⑥ 寄せられた資料 父のはがき

 原爆の日が近づく。広島へ1945年8月6日史上初めて米軍が投下した原爆は、あまたの命を奪っただけではなく、生き残った人たちに苦難を強いた。そこから今に続く願いや訴えがある。半面、被爆の記憶は、体験者が減り老いるなか薄らいでもいる。原爆の惨禍を刻む資料を未来へつなげよう―。紙面での呼び掛けに応じ、家族で受け継ぐ遺品などの資料が寄せられてきた。原爆で人間はどうなったのか、生きてきたのかを伝えるヒロシマの遺産でもある。(「伝えるヒロシマ」取材班)

子を思う行間の親心

 広島市安佐南区山本の喜馬理陽(まさはる)さん(81)は、黄ばんだ1枚のはがきを保存する。鉛筆で書かれた文面は所々薄れ、送り主の名前などを自ら万年筆でなぞっていた。父の康夫さん=当時(46)=が45年8月16日に妻子の消息を求めて書いたはがきだ。父は9月2日に死去した。

 「友子や理陽の生死かは(分)かりません。其(そ)の後手掛ハありませんでしようか」。重傷者が収容された市郊外の観音国民学校(現佐伯区)の病室で書き、妻友子さん=当時(34)=の弟宛てに送った。はがきは、両親の死去後に受け取った。

 一人息子だった理陽さんは「自宅の台所跡を掘り返したら、私を待っていたかのように母の遺骨が出てきました」と言い、その場所を案内してくれた。中区大手町の市立大手町商業高の校庭。69年ぶりの再訪だという。「面影は全くなくても思い出しますね」。つぶやくように述懐した。当時、県立広島商業(県商、現広島商業高)の1年生だった。

 45年8月6日朝、父は横川町(現西区)にあった勤め先の軽車輪組合に出た。母は、前日が誕生日の理陽さんに好物の卵焼きを入れた弁当を持たせた。「行って帰ります」。それが別れの言葉となった。

 被爆の瞬間は、県商が移転していた皆実町(現南区)の校庭で整列していた。「体ごと吹き飛ばされ、顔はじりじりするほど熱かった」と表した。臨時救護所となった大河国民学校(同、現大河小)へ運ばれ、数日後に鈴張村(現安佐北区)の寺へ移された。

 「父は何とか私たちを捜そうとしたんでしょう」。はがきには「私もやけどや両足のけがでまた一週間は市内へかへれまいと思ひます」とある。父康夫さんの死は、9月半ば寺を訪ね当てた母方の祖母から聞く。寺の救護所が閉鎖となった後、11月に自宅跡へ戻り、母友子さんの死を掘り返した遺骨からも確認した。

 独りとなった被爆後は「辛抱続きでした」。県商を中退し、住み込みで働かざるを得なかった。家具店や土木会社、菓子卸と仕事を転々とした。勤め先の倒産も経験した。わずかな給料から夜間中、高校に通い、22歳で菓子問屋を開く。商売仲間の紹介で25歳で結婚し、家庭を持った。妻操江さん(81)との間に1男1女を授かり、孫も6人いる。

 被爆体験は子や孫にもあらたまって話さなかったという。それが3年前、近所の山本小から依頼された。「どの子も真剣に聞いてくれ、話してよかった」と心から思えた。父からのはがきを「伝えるヒロシマ」へ託してきたのは、原爆の真実が伝わればとの願いから。添えた手紙にも「戦争は絶対反対。世界が平和でありますように」と結んでいた。

(2014年7月8日朝刊掲載)