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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <10> 仏参の日々 高蔵信子さん(88) 芸備銀行で被爆 命の重み伝え続ける

 高蔵信子(あきこ)さん(88)は、広島市安佐北区亀山の報恩寺で坊守を務めてきた。先代の住職だった夫を19年前に見送り、長男が後を継いだ今も、毎週月曜日は、寺近くの亀山みどり保育園の年長園児たちが仏賛歌を歌ったり、話を聞いたりする「仏参」を受け持つ。

 仏参では、「アリさんもダンゴ虫も命は一つ」と説く。「命の大切さを幼い頃から学べば、戦争は絶対いけないと分かるはずです」。そんな教育観の礎には自らの被爆体験がある。

手の指先に青い炎

 1945年8月6日は、爆心地から東に約260メートル、紙屋町(現中区)の芸備銀行(現広島銀行)本店で被爆した。鉄筋本店1階の為替課に出勤して机を拭いていた。「白くピカッと光った途端に体の左を下に吹き飛ばされ、床にたたきつけられました」。旧姓は龍谷といい、19歳だった。一つ年下の同僚、宇佐美君子さんの助けを求める叫び声で意識を取り戻した。

 2人で本店前の電車通りに何とか出ると、そこは人間が黒焦げや血だらけとなった世界。「男性の遺体の手の指先が青い炎を上げて燃え、短くなっていたのが忘れられません」と言う。

 さらに西練兵場(現県庁周辺)へ逃げた2人は、夕方になると寒さを覚え、トタン板で体を覆ってしのいだ。「助けて、お米をあげるから…」。懇願する声が夜もこだました。「私もここで死ぬんだと覚悟し、『先に逝きます』と空に向かって言いました」

 翌朝。肉親を捜して爆心地一帯に入った男性は2人を見て、「よそのやつばかり生きとる」と口にした。「人間のはかなさ。また、そう思わざるを得ないほど必死だったんでしょうね」と振り返る。

 2人は宇品町(現南区)に住む宇佐美さんの父に運よく見つけられ、大八車で運ばれた。高蔵さんは迎えに来た母に連れられて10日、郷里の倉橋島(現呉市)へ戻ることができた。宇佐美さんは1カ月もたたずして亡くなったという。

 高蔵さんは100カ所以上の傷を負ったが、両親の看護で徐々に回復し、実家の西芳寺で園児たちをみた。34歳で結婚し、報恩寺の坊守となり、保育を続ける。

 被爆体験を脳裏に焼き付く青い炎の指に託して描き、NHKが74年に募った「原爆の絵」に応じた。その絵に注目した広島平和文化センターから依頼され、65歳から10年余り修学旅行生たちに体験を証言した。

 証言では、描いた指に必ず触れた。「男性は、あの指でお子さんを抱っこされたんでしょうか。本をめくられたんでしょうか…」。原爆に奪われた一人一人の命の重みを想像してほしいから。生き残った人たちのその後の人生にも思いを寄せてほしいとも願った。

 自身は45歳で脊髄腫瘍を手術。造血幹細胞に異常が一昨年見つかり、白血病に移行しやすい骨髄異形成症候群(MDS)と診断された。MDSは爆心地1・5キロ以内の被爆で発症率が高まるという研究報告があるが、高蔵さんは原爆症認定を昨年末に却下され、再び申請を余儀なくされている。

核兵器「なぜ今も」

 「原爆のため命が続く限り苦しめられる。死ぬまで解放されない。なぜ、そんな兵器が造られ、今もあるのか。私たちは人間だというほど賢くないんでしょうね」。淡々とそう語った。

 広島の爆心地半径500メートル以内で被爆して今、健在なのは12人。自らを「生かされているとしか思えない」と多くが捉えていた。助かっても肉親を奪われたり、長じては重複がんを患ったりしていた。不条理な苦難と闘う。核兵器がいかに非人道的なものであるかをまさに語っている。(おわり)

(2014年8月4日朝刊掲載)