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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <9> 地下室の奇跡㊦ 太田睛さん・2007年死去/嵐貞夫さん・1993年死去 

袋町国民学校で被爆

家庭築き生き抜いた

 広島市中区の袋町小平和資料館は、焼け残った鉄筋の旧袋町国民学校西校舎の一部を保存して2002年に開館した。爆心地から約460メートルの校舎地下にいて助かった児童3人の被爆と脱出を、「地下室の奇跡」と紹介している。展示パネルには「A」「O」「T」のイニシャルで記す。

 大阪府門真市で健在の友田典弘さん(78)=21日付掲載=と同じように、他の2人も孤児となっていた。原爆がもたらした苦難に立ち向かい、家庭を築き、生き抜いた。

父母ら失い施設へ

 太田睛(ひとみ)さんは07年に70歳で亡くなっていた。「胃がんに最期は肺炎にも苦しみました」。妻の晳子(せきこ)さん(72)は、一人住む安佐北区の自宅で取材に応じた。43年間連れ添った。

 1945年8月6日朝、2年生だった太田さんは、校庭に素足で出たため靴を履くようにと先生から言われた。取り壊されていた木造校舎の後片付けがあった。被爆の瞬間は「げた箱がある地下室に下り、靴を手に駆け足で階段を上がる途中でした」と、中国新聞の「検証ヒロシマ」(95年刊)で証言している。

 原爆は、父悟さん=当時(45)=や母カメノさん=同(44)=ときょうだいの家族6人を奪った。学童疎開先から戻った兄や姉と別れ、広島湾沖合の広島県戦災児教育所(現似島学園)へ預けられる。

 米軍の占領統治が明けた52年、平和記念公園で原爆慰霊碑が建立されると「原爆孤児」たちが碑の除幕に当たる。太田さんはその一人でもあった。中学3年まで施設で過ごし、自立した兄に引き取られ、高校から大阪の写真学校へ進んだ。

 写真現像店を胡町(現中区)で営んでいた64年に結婚した。晳子さんを寺町(同)の菩提(ぼだい)寺に連れ、「わしの両親の墓」と言葉少なに紹介したという。店の賃貸契約が切れるとタクシー運転手に転じたが「体がしんどい」。34歳で市職員に採用された。息子2人が生まれると可部町(現安佐北区)の団地に住まいを建てた。

 胃がんが見つかったのは91年。胃を全摘し、好きだった酒もやめた。だが、95年に29歳の長男が交通事故で先立つ。さらに04年には10歳の孫娘が白血病で亡くなった。「わしのせいじゃろうか…」。医師から否定されても、ひどく落ち込むようになった。

 「息を引き取る3カ月前からです。避けていた孤児のころも勢い込んで話すんです。まさか死ぬとは思えず…もっと聞いておけば…」。夫の古希を祝う写真を飾る居間で妻は悔いるように振り返った。

すし店に入り修業

 嵐貞夫さんは胃がんのため93年に亡くなっていた。57歳だった。

 「夫は終わったことと受け止めて生きた。いまさら原爆と結びつけられて店の名が出るのは…」。嵐さんが松江市内で営んだすし店を訪ねると、妻(70)は困惑しながらもカウンター越しに淡々と話した。

 4年生だった嵐さんは、級友の友田さんと地下室から比治山へ逃げた。被爆後は松江にいた父の妹に引き取られる。父は既に病死し、母や祖父母、きょうだいの8人を原爆で失い、一人きりとなった。

 中学卒業後はすし店で住み込みで修業。妻の父が開いた店に勤めた縁で65年に結婚し、観光地そばの現在の場所に店を移すほど繁盛させた。授かった1男1女をかわいがった。

 「原爆のテレビ番組を見ると『あんなもんじゃなかった』とは言いましたけれど」。嵐さんも、あの日遭った体験を、強いられた思いを家族にもあらたまって語っていなかった。

 約30人が座れる店ののれんは長男(47)が守る。客足が引いた時間帯も寡黙に仕込みを続けた。嵐さんの妻は「大変な仕事なのに息子として思うところがあり、継いだんでしょう」と、板場の立ち姿に亡き夫の面影も見る。この話題ばかりは笑みを浮かべて応じた。

(2014年7月28日朝刊掲載)