×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <7> 八十路の句 広島富国館で被爆 徳清広子さん

苦楽越え母への感謝

 徳清広子さん(84)が、車いすを日々の生活で使うようになったのは今春からという。広島市西区己斐中の自宅に1人で住む。「苦労しとるように見えん、と若いころからよく言われるんですよ」。いたずらっぽく笑い、「こうして穏やかに暮らせるのは母のおかげ」と何度も強調した。

 爆心地から南東約330メートル、袋町(現中区)にあった鉄筋7階の広島富国館で被爆し、今も健在の4人のうちの1人だ。館内の広島電信局に勤めていた。旧姓中屋広子さんは、逓信講習所を出て間もない15歳の通信課員だった。

東京の博士の診断

 1945年8月6日、4階で庶務課の女性と立ち話をしていた、被爆の瞬間を「耳の中で波紋がワーンと広がる感じがした」と表す。気が付くと、目の前にかざした両手が見えないほどの闇に包まれていた。顔は血まみれ、コンクリート片が右くるぶしに刺さっていた。

 崩れかかった階段を下りて外に出た。路面電車内では、つり革につかまったまま即死した人たちが、赤黒い肉塊の格好でぶら下がっていた。火炎の中をはうようにして約200メートル進み、今も平和大通り沿いにある白神社に着くと雨が落ちてきた。その「黒い雨」を両手で受けて飲むうちに、気を失っていた。

 夕刻に目覚めて泣いていると、顔見知りの男性が自転車で通りがかった。富国館の東にあった中央電話局に勤める娘を捜しに来たのだという。「あんたを助ければ娘も誰かが助けてくれるじゃろう」と荷台に乗せてくれた。広島電鉄本社(現中区東千田町)近くで、捜しに入っていた母イシノさん=当時(43)=と三つ上の兄輝蔵さんに会い、宇品町(同南区)の自宅へ戻ることができた。

 高熱や歯茎からの出血などの症状が続いた。母に連れられて宇品町の陸軍共済病院で「東京の博士」に診てもらったと証言した。

 広島で被爆して東京に戻り、8月24日に死去した俳優仲みどりを「原子爆弾症」と初めて認定した都築(つづき)正男教授と、彼が率いた東京帝大調査団だろう。一行は30日に広島へ入り、共済病院を拠点に診察と調査に当たった。

 診断は「2カ月と持たない」。髪をとかすと左半分がごそっと抜け落ちた。しかし、母は、おかゆを口移しで食べさせ、家財や着物を闇市で売って薬代も捻出した。母の献身と祈りが通じたのか、体は数年がかりで回復していった。

貧しても鈍するな

 「貧しても鈍してはいけん」。母の教えを胸に刻み、被爆後を生きてきたと自負する。イシノさんは58年に55歳で死去した。肺がんだった。

 大工だった春義さんと結婚し、2人の娘を育てた。自ら商売も営んだ一時期の暮らしについて言及したが、「やっぱり苦労話は書かんで」と退けた。

 それでも「一番大変だった頃」と、一枚の白黒写真を財布から取り出した。髪をすっきりまとめ、友人から借りたという丸襟のコート姿。30歳前後だという。きりっとした眉とまなざしが、被爆のすさまじさを乗り越えてきた生来の心の強さをうかがわせた。

 2001年に乳がん、肺がんを手術した09年には夫が79歳で他界した。広島市内に住む娘はほぼ毎日訪ねてくる。4人の孫も元気に育った。食事や洗濯の世話をするヘルパーも家族同然の仲だという。

 何度か訪ねるうち、アルバムを広げ、1編の句を見せてくれた。

 どろぬまを 這(は)って歩いて 八十路かな

 「いいことも悪いこともあった。だけど母には『生んでくれてありがとう』と今も伝えたい」。アルバムには、娘家族やヘルパーとの写真やメッセージカードがぎっしり並んでいた。

(2014年7月14日朝刊掲載)