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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <6> お題目 光藤千代子さん

芸備銀行で被爆

 
火の海で唱え続けた

 被爆者健康手帳の所持者は厚生労働省によると19万2719人を数える(今年3月末現在)。広島市東区牛田新町に住む光藤千代子さん(90)は、健在者で原爆のさく裂直下に最も近くにいた一人だろう。爆心地から東に約260メートル。紙屋町(現中区)の芸備銀行本店で被爆した。旧姓は白砂といい、預金係だった。

 その光藤さんと広島銀行本店の屋上に上がった。118万人都市の中心街、紙屋町に立つ8階建て屋上にはブロンズ製の慰霊碑が置かれている。前身の芸備本店で被爆した23人をはじめ犠牲者144人が祭られている。碑に手を合わせると、1945年8月6日にいた爆心地をしっかりとした口調と記憶で語った。

特殊鋼鉄の金庫室

 預金課長代理の田頭芳雄さんに付いて、1階営業室から通路に出た瞬間です。ピカーッと光った。頑丈な金庫室が北隣にあり、私は陰になっていたのかもしれません(鉄筋5階の本店が完成した27年の行内誌によると、米国製の金庫室は特殊鋼鉄で囲まれていた)。

 気づいたら、体の上にコンクリートがかぶさっていました。はい出ると(給湯室などがある)東奥から火の手が見えました。地下が避難場所でした。階段を下りかけ、同僚から聞いた神戸空襲の話をハッと思い出したんです。「地下にいた人は蒸し焼きになった」。私は引き返して通用口から電車通りに出ました。

 通りでは、兵隊さんの隊列と馬が黒焦げでした。恐怖より、どこへ逃げるか、西練兵場の芋畑に向かいました。今の県庁辺りです。振り返ると、本店も周りのビルも窓という窓から火が噴き出とりました。

 けが人がいっぱいの芋畑の畝の間に伏せました。時折「ボガーン」と音がし、男の人が「また落としやがったー」と叫ぶんです。弾薬庫に火がついたんでしょう(北側の広島城一帯には中国軍管区兵器部などがあった)。(西側の)陸軍病院も燃え、四方は窯の中にいるような火の海。喉がからからになってもうろうとし、隣の人は静かになって死んでいました。

 私も死ぬと思ったとき、尾崎士郎の小説で読んだ日蓮の逸話を思い出したんです。声が出ないので、お題目を何度も心で唱えました。すると雨が降ってきて、手で受けて飲みました。ぬれたもんぺもちゅうちゅう吸いました。周りの火が落ちてきたので何とか立ち上がりました。

玄関で意識を失う

 光藤さんがいう「雨」とは、放射性降下物を含んだ「黒い雨」だ。当時の広島管区気象台の「原子爆弾被害調査報告」によると、爆心地は午前9時から降りだし、北北西方に移動する。火災は午前10時~午後4時ごろ最も盛んとなる。

 「助けて」「水…」。うめき声がする路面電車の白島線沿いを歩き、常葉橋から京橋川の河原に下り、牛田新町(東区)の伯父宅をひたすら目指した。「玄関を一歩入るなり意識を失っていました」。着いたのは夕刻だったという。

 2カ月後に職場復帰したが、体調は優れずそのまま退職。上司の田頭さんは9月15日に亡くなっていた。

 光藤さんは、69年前に倒れ込んだ木造住宅で今も暮らす。1男1女を育て上げ、4年前に夫を見送った。孫は4人、ひ孫も5人いる。家族の写真をあちこちに飾った自宅で、被爆後の半生を朗らかに語った。

 「80歳で大腸がんを患うまで不思議なくらい元気でした。好奇心旺盛なのが、ええんでしょう」。70代までは山登りを楽しみ、世界各地を旅した。90代に入っても料理教室や歴史講座に通い、紙屋町一帯を歩く。「でも、原爆はできるだけ思い出さないようにしています」と言う。「思い出すと寒けがする」からだ。

(2014年7月8日朝刊掲載)