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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <5> 匿名なら… 女性 革屋町・電車内で被爆 

女性 革屋町・電車内で被爆

今も気になるうわさ

 郷里の広島県内の山あいの町で1人暮らしをしている。「名前も住所も書かないのなら…」。女性(84)は何度も念を押し、半生を語った。広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)が1972年時点で確認した「近距離被爆生存者」で、今も健在の12人の1人。呉市豊町に住む柿本美智恵さん(88)=23日付掲載=と同じように、路面電車内で奇跡的に助かった。

 広島電鉄家政女学校2年生で車掌も務めていた。「勉強より勤務の方が忙しい」日々が続いた。学校は、男性運転士や車掌も兵隊にとられ、乗務員が足りなくなった戦時下の43年に開校し、広島市皆実町(現南区)に寮もあった。3学年に309人が在籍した。

乗客の壁 熱線遮る

 45年8月6日朝は、「動員現場へ向かうため」寮近くの電停から己斐行き電車の最後尾にもぐり込んだ。満員だった。小柄な15歳は男性客の脇の下で押しつぶされそうになっていた。

 袋町(現中区)の日本銀行広島支店近くの大木が遠ざかるのが、車窓から見えたという。大木は支店南隣の国泰寺(現在は西区)のクスノキとみて間違いない。被爆者健康手帳では「大手町1丁目 0・5キロ」と記されているが、実際の場所は爆心地から約300メートルの革屋町電停(現本通)近くとみられる。

 被爆の瞬間を「パツーンという音がし、目の前が真っ暗になった」と表した。気が付くと辺りは燃えさかり、腕時計は8時16分で止まっていた。身動きできないほど混んでいて他の乗客に熱線や衝撃波を遮られたのだろう。「やけどもなく、ここをガラスか何かで切っただけ」と、左肘内側の小さな白い傷痕を示した。

 近くの防空壕(ごう)に逃げ込み、火炎が収まるのを待った。子どもも大人も全身の皮がむけ、体液がだらりと流れる。「まさに地獄の中の地獄だった」

 3日後の9日、山あいの実家にたどり着いた。左太ももに黒い斑点が現れ、髪も全て抜けた。両親も医師も治療の手だては分からず、ひたすら療養した。母校は広島が未曽有の混乱に陥ったなかで廃校となった。

 髪の毛が再び生えそろった後は、広電で5年ほど事務員を務めた。51年に国鉄(現JR西日本)勤務で同郷の男性と恋愛結婚した。

 一つ年下の夫は広島駅で被爆していたが、「夫婦同士では気にもならず」1男1女をもうけた。ただ、夫は、入隊した現在の陸上自衛隊で昇進への影響を心配し、被爆を周囲に明かさず手帳を取得しなかった。

 郷里の隣近所では、夫婦が「あの日」広島にいたことは口を閉ざしても知られていた。「両親が被爆しとるけえ、変な子が生まれるかもしれん」。子どもの縁談は心ないうわさで何度も流れたという。そして「孫は2人おる。頭がええんよ」と誇らしげに話した。

 西日本を中心に4度の転勤を経て、夫婦は84年に帰郷。夫は97年、肝臓を患い66歳で亡くなった。

議論へのいら立ち

 日課の畑作業のほかは、自宅でもっぱらラジオを聴いて過ごす。集団的自衛権をめぐるニュースや、勇ましい議論にいら立ちを覚える。「戦争も、原爆にも遭いもせん者らが…」。声は怒気をはらんでいた。

 名前を明かして被爆を語る気はないか、もう一度尋ねた。「今もいろいろ言う人はおる。やっぱり人の口に戸は立てられんから」。信念は変わらなかった。

 玄関を開けて外に出ると白い綿毛のようなものが舞っていた。「クリの花よ。街中と違い、空気がうまいじゃろ。私はここで一日でも長く生きる。残された者の務めはそれだけよ」。曲がった背で膝に手を突いて立ち、見送ってくれた。

(2014年6月30日朝刊掲載)