伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <6> 母校の跡で 「勝つため」妹は行った
15年7月14日
母校は原爆で廃校となった。爆心地から約1・3キロ、天満川右岸に面する広島市東観音町(現西区)にあった校舎は全壊全焼し、開校は1927年にさかのぼる私立西高等女学校の歩みは断ち切られた。
住宅地に面影なく
森本(旧姓岩井)英子さん(86)=西区小河内町=は、懐かしさと寂しさが入り交じった表情を浮かべ母校の跡を見回した。
「面影はどこにもありませんね」。住宅が続き、西高女の存在を伝える記念碑もない。「私たちの学校を知る人はもうほとんどいないでしょうね」。年を重ね同級生が集まることもないという。記憶に残るだけの母校となった。
英子さんは41年春、双子の姉貞子さん(2007年に79歳で死去)と入学した。1学年約100人。「先生も身近に感じられる温かい学校でした」。和洋裁や作法も熱心に学んだ。しかし、米英との戦争突入と戦況の悪化により、学徒勤労動員が始まる。
4年生からは西観音町(現西区)の昭和金属工業へ出た。航空機の尾翼や燃料タンクの部品造り。
森本さんも「神風」と書いた鉢巻きを締め、ジュラルミン板にドリルで穴を開け、金づちで鋲(びょう)を打った。身長は約150センチ。栄養状態は悪く休みも十分にない。それでも「お国のため」と励み、体を壊す学徒も少なくなかった。
45年春、形ばかりの卒業式をした後は専攻科生として動員が続き、妹で三女の喜和子さん=当時(12)=が西高女に入学する。
8月6日は、福島町(現西区)の自宅近くの米穀店で被爆した。動員先の工場は材料不足から休みだった。喜和子さんは、小網町(現中区)の建物疎開作業現場に動員されて向かう。
母フミさんは休むよう引き留めたが、喜和子さんは「私が行かんと日本が負ける」と聞かなかった。英子さんは悔いるように語った。「私たちが『行かせてやりんさい』といらぬ口を挟んだばかりに…」
喜和子さんは、収容された己斐国民学校(現西区の己斐小)で両親が見つけた。夕刻、戸板に乗せて家族が避難した薪小屋へ連れ帰った。全身やけどの妹に大声で呼び掛けると、「うん」と答えたという。
デルタを包む炎が己斐の山中も照らした6日夜、喜和子さんは「呼吸が苦しい」と言って息絶えた。
残せなかった写真
父重夫さんも被爆2年後に48歳で逝く。英子さんは母や伯母と己斐駅(現JR西広島駅)前で戸板1枚を置いて化粧品を売った。宣伝のために初めて化粧もした。うれしかったが、ためらいも覚えた。
亡き妹は、原爆で自宅が焼け一枚の写真すら残せなかったからだ。54年に結婚して娘2人を授かった後も化粧品店を続けた。娘が学校に通うようになると、地域の母親たちでつくる学習会に誘われた。
「妹のこと」と題して65年、会報誌に手記を寄せた(「あさ わたくしの戦争体験」に収録)。母が自身の姉と手を取り合って泣いた光景も記した。伯母の次男、六岡由郎さんは、喜和子さんと同じ小網町の建物疎開に動員され原爆死した。市立中1年生だった。
動員学徒塔が平和記念公園に67年建立されると、娘を連れ「叔母ちゃんたちの碑よ」と教えた。原爆体験や半生を何度も手記に表した。2000年代になると原水爆禁止日本協議会に求められ、広島市での原水禁世界大会で年に1度証言をするようになった。
「もう何十年ぶりでしょうか、でも来てよかった」。森本さんは妹も通った道々を確かめるように東観音町を歩いた。広島市の「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると、西高女生徒は判明しただけで217人が亡くなった。
(2015年7月14日朝刊掲載)
住宅地に面影なく
森本(旧姓岩井)英子さん(86)=西区小河内町=は、懐かしさと寂しさが入り交じった表情を浮かべ母校の跡を見回した。
「面影はどこにもありませんね」。住宅が続き、西高女の存在を伝える記念碑もない。「私たちの学校を知る人はもうほとんどいないでしょうね」。年を重ね同級生が集まることもないという。記憶に残るだけの母校となった。
英子さんは41年春、双子の姉貞子さん(2007年に79歳で死去)と入学した。1学年約100人。「先生も身近に感じられる温かい学校でした」。和洋裁や作法も熱心に学んだ。しかし、米英との戦争突入と戦況の悪化により、学徒勤労動員が始まる。
4年生からは西観音町(現西区)の昭和金属工業へ出た。航空機の尾翼や燃料タンクの部品造り。
森本さんも「神風」と書いた鉢巻きを締め、ジュラルミン板にドリルで穴を開け、金づちで鋲(びょう)を打った。身長は約150センチ。栄養状態は悪く休みも十分にない。それでも「お国のため」と励み、体を壊す学徒も少なくなかった。
45年春、形ばかりの卒業式をした後は専攻科生として動員が続き、妹で三女の喜和子さん=当時(12)=が西高女に入学する。
8月6日は、福島町(現西区)の自宅近くの米穀店で被爆した。動員先の工場は材料不足から休みだった。喜和子さんは、小網町(現中区)の建物疎開作業現場に動員されて向かう。
母フミさんは休むよう引き留めたが、喜和子さんは「私が行かんと日本が負ける」と聞かなかった。英子さんは悔いるように語った。「私たちが『行かせてやりんさい』といらぬ口を挟んだばかりに…」
喜和子さんは、収容された己斐国民学校(現西区の己斐小)で両親が見つけた。夕刻、戸板に乗せて家族が避難した薪小屋へ連れ帰った。全身やけどの妹に大声で呼び掛けると、「うん」と答えたという。
デルタを包む炎が己斐の山中も照らした6日夜、喜和子さんは「呼吸が苦しい」と言って息絶えた。
残せなかった写真
父重夫さんも被爆2年後に48歳で逝く。英子さんは母や伯母と己斐駅(現JR西広島駅)前で戸板1枚を置いて化粧品を売った。宣伝のために初めて化粧もした。うれしかったが、ためらいも覚えた。
亡き妹は、原爆で自宅が焼け一枚の写真すら残せなかったからだ。54年に結婚して娘2人を授かった後も化粧品店を続けた。娘が学校に通うようになると、地域の母親たちでつくる学習会に誘われた。
「妹のこと」と題して65年、会報誌に手記を寄せた(「あさ わたくしの戦争体験」に収録)。母が自身の姉と手を取り合って泣いた光景も記した。伯母の次男、六岡由郎さんは、喜和子さんと同じ小網町の建物疎開に動員され原爆死した。市立中1年生だった。
動員学徒塔が平和記念公園に67年建立されると、娘を連れ「叔母ちゃんたちの碑よ」と教えた。原爆体験や半生を何度も手記に表した。2000年代になると原水爆禁止日本協議会に求められ、広島市での原水禁世界大会で年に1度証言をするようになった。
「もう何十年ぶりでしょうか、でも来てよかった」。森本さんは妹も通った道々を確かめるように東観音町を歩いた。広島市の「広島原爆戦災誌」(71年刊)によると、西高女生徒は判明しただけで217人が亡くなった。
(2015年7月14日朝刊掲載)