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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <4> ミカンの島で 柿本美智恵さん 

左官町・電車内で被爆

お守り 今も心の支え

 広島原爆で米軍が投下の照準点にしたのがT字形の相生橋だ。さく裂の瞬間、柿本美智恵さん(88)は相生橋を過ぎたばかりの路面電車に乗っていた。大崎下島(呉市)の久比港からフェリーで約10分。呉市の離島、三角(みかど)島の豊町に住む。ミカンの木が生い茂る島には38人が暮らしている。

 「島の被爆者は私だけ。病院ものうて不便じゃが、古里を離れとうないんです」。美智恵さんは、海辺の自宅でくつろぎながら取材に応じた。両親から引き継いだミカン栽培は、足腰が衰えて2年前にやめた。島内の造船所に勤める長男貢さん(64)との2人暮らしと、大崎下島の介護施設でのショートステイを1週間ごとに続けている。

 取材には、福山市在住の長女柿本千代子さん(62)が戻り付き添った。「私らにも原爆のことはほとんど言わなくて」。娘の打ち明け話に、母は上着の下にぶら下げていた石鎚神社(愛媛県西条市)のお守りを引き出した。「これが、今まで私を生かしてくれたように思えてならんのです」。19歳だった夏を語った。

「急に光り、ガシャ」

 1945年8月6日、専売局前(現広島市南区皆実町6丁目)から乗車した。友人に会うため泊まりがけで広島を訪れていた。相生橋を過ぎたところで「急に光り、ガシャという音がした」。爆心地の北西約500メートル、左官町(現中区本川町)での被爆の瞬間をそう表す。混んでいた乗客の間に突っ伏し、われを忘れて倒れていた人たちの背中を踏んで窓から外に飛び出たという。

 広島電鉄によると、あの朝、63両の路面電車が運行していた。相生橋から西の十日市近くまでを走っていた木造2両と鋼製1両は全壊・全焼した。

 島で信仰があつかった石鎚神社のお守りは常に身に着けていた。それを握りしめ、屍(しかばね)の街をさまよった。土地勘はなかった。広島駅近くで呉方面へのトラックを見つけ、船を乗り継ぎ、「戻りたい一心」の島に8日着いた。

 自宅では、高熱に歯茎からの出血、脱毛…と急性放射線障害に襲われた。

 「体にええという草や魚介を両親が食べさせてくれた。家を失い、食べ物もなかった街の人より恵まれとったんでしょう」。体は次第に回復して49年に結婚。1男2女を授かった。56年に離婚したがミカン栽培で子どもを育てた。

 だが、発熱や紫斑は何年たっても続いた。あの日「黒い雨」も浴びた体験から、雨天は外出をできるだけ控え、晴天の畑作業でもにわか雨に備えて頭にかぶるナイロンを持って出た。被爆の影響を診てくれる医師は近くにはいなかった。

 62年に肝炎となり、原爆病院(現広島赤十字・原爆病院)に1カ月入院した。本格的な治療を受けられた半面、同室の被爆者が肝臓がんで亡くなるのを見た。恐怖が拭えなかった。

口惜しさのみ込む

 後に肝炎で原爆症と認定されると、「『お金をもらえてええね』とも近所の人からいわれ…」。中学を卒業して島外で就職した子どもたちに医療費のことで心配を掛けさせたくない。口惜しさをのみ込んだ。

 心の支えにしたのが石鎚神社への参拝。被爆の翌年から欠かさず、昨年も千代子さんと参り、お守りを新しく受けた。「原爆のときも着けていたなんて、知らなんだ」。娘は時に驚きながら母の被爆体験を聞いた。

 原爆の日が近づくと毎年、路面電車で被爆証言を聞く会がある。「頼まれても話せません。私にできるんは家族の健康を祈ることくらい」と答えた。島にいるときは手押し車で氏神さまの美加登神社に参る。孫5人も健康なのが何よりの願いであり幸せだ。

(2014年6月23日朝刊掲載)