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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 爆心地500メートル <2> 火炎の竜巻 高橋匡さん 

広島富国館で被爆

助けられず自責の念

 オフィスビルが続き、1日の通行車両は3万2600台、路面電車も行き交う。広島デルタの鯉城通り沿いに立つ中区袋町のフコク生命ビルの前で、高橋匡さん(88)は被爆直後をこう証言した。南区旭に住む。

 「真っ赤な竜巻が、この通りの反対側(西側)から襲ってきたんです」

熱線の直射免れる

 1945年8月6日は爆心地から南東約330メートル、鉄筋7階建ての広島富国館にいた。広島電信局庶務課員だった。電信局は堅固な富国館の5階から地下1階までを占用していた。軍の空襲警報を各市町村にも電信する防空業務を担っていた。

 19歳だった高橋さんは、空襲警報が前夜から続き、局内で6日朝を迎える。「連日の勤務で宿直室で休んでいた」のが、窓のない地下だったことが幸いした。「鼻から耳に抜けるほど」の衝撃波を感じ、壁や天井の塗装が吹き飛んだが、熱線の直射を免れた。かすり傷一つしなかった。

 4階の庶務課へ崩れかかった階段につまずきながら上がると、女性職員が壁の下敷きとなっていた。軽傷の同僚2人と血まみれのけが人らを運び出す。男女13人がビル南側の裏口に何とかたどり着き、そばの防火水槽を取り囲んだ。

 そこへ「直径は5、6メートルはあったでしょうか。こぶし大の石を巻き上げながら真っ赤な竜巻が私たちを2度襲ってきた」という。さらに黒い筋状の竜巻が続いた。

 広島の上空で核分裂したウランは実質1キロとされる。それでも爆心地から大火災を巻き起こし、空気の大量流入で火炎の竜巻もデルタを走ったのだ。

 高橋さんは手押しポンプで水をくみ上げ、一緒にいた人たちにかけた。だが火炎と煙の竜巻に7人が耐え切れず、ビル内にも逃げ込んだ。竜巻が通り過ぎると亡くなっていた。火勢が衰え始めた午後2時ごろ、命令を受け基町(現中区東白島町)の広島逓信局へ報告に向かう。全焼した富国館へ翌日も出た。

 「出局者ハ専(もっぱ)ラ死体発見、従事員安否問合ニ専念シ」。原爆資料館が保存する「昭和廿(にじゅう)年八月 電信日誌」7日の項には、高橋さんら6人の名前がある。中国電気通信局(現NTT西日本)の「広島原爆誌」(55年刊)によると、動員学徒を含む勤務者117人のうち97人が被爆翌月の9月末までに死去した。

 高橋さんは、49年に逓信省が電気通信省と郵政省に再編され、郵便部門に所属する。2年前に結婚していた。「妻は広島駅で原爆に遭い、お互いの親も被爆のことは問題にしなかった」という。娘2人も授かった。安佐北区の可部郵便局長で85年に定年退職した。

 大病はなかったが、94年に大腸がんが見つかる。腰を痛めたこともあって入院は3年にも及んだ。

 闘病中、妻チヅエさん(86)にしばしばこう口にした。「おい、ゆうべも見たよ」。助けられなかった人たちの姿が夢でよみがえってきたからだ。

原爆症の申請せず

 記憶の封印を解くかのように2004年、電信局で犠牲となった女子学徒たちの後輩となる祇園高(現AICJ高)で話した。以来、体調が許す限りは体験を証言する。

 医療特別手当を受給する原爆症認定の申請はあえてしていない。「きれいごとに聞こえるでしょうが、亡くなった人たちに申し訳なくて。なぜ、助かったのか、今もよう分からんのです。生かされたことだけで十分です」。被爆線量は0・9シーベルトと推定されている。

 「あの日」はもう夢に見なくなったとも明かした。「年のせいか、自責の念が薄れてきているのかもしれません」。そう語る表情はどこか寂しげである。富国館で被爆し、健在の男性は高橋さん一人となった。

 「炎の竜巻が2階窓に吸い込まれると富国館は一気に燃え上がりました」と、鯉城通りで語る高橋さん。全焼しても残ったビルは1982年に建て替えられた(撮影・高橋洋史)

(2014年6月10日朝刊掲載)