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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ ⑤ 爆心地500メートル 奇跡の生存 78人の記録

 広島へ1945年8月6日に投下された原爆は、人間を爆心地近くでは「原形をとどめぬほど炭化させた」(46年の米戦略爆撃調査団報告書)。壊滅的な打撃を受けた爆心地の半径500メートル以内で被爆し、72年時点で生存していた78人についての詳細な調査記録がある。「近距離被爆生存者に関する総合医学的研究」という。広島大名誉教授の鎌田七男さん(77)が40年を超えて取り組む。集めた資料を整理してファイルにもまとめた。核兵器の非人道性を証明する調査ファイルだ。(「伝えるヒロシマ」取材班)

医師が追う 非人道性の証明

 鎌田さんは「大線量放射線被曝(ひばく)の生存者は世界に類を見ない集団であり、医学的、社会学的に詳しく調べたこれほどの資料はないでしょう」という。健在の12人をはじめ78人全員の資料を、一昨年秋から一人ずつファイルに整理し、広島市内の一室で厳重に保管している。

 被爆状況や病歴などを記した「個人情報」▽46年にさかのぼる各種の「基礎調査」▽被爆線量の推定を可能にした個々の「染色体記録カード」▽病理学資料写真や聞き取り録音のCD、寄せられた手紙-などに分類する。情報の一部は電子データ化もした。

 爆心地500メートル以内の被爆生存者調査は72年、広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)のプロジェクトとして始まった。そもそもは、原医研疫学・社会医学部門が68年から本格化させた「爆心復元調査」が基となった。

 人間は原爆でどのようになったのか―。「原爆被災白書」の作成を政府に求める声が当時高まっていた。

 原医研の志水清所長(91年死去)や湯崎稔助手(後に総合科学部教授。84年死去)らは、「人間に及ぼした原爆被害の本質と深くかかわっている」(志水編「原爆爆心地」)半径500メートル以内の被害を掘り起こす。NHK広島放送局と連携して街並みを地図上に復元した。

 その過程で被爆生存者が1人、2人と見つかり、確認された。「総合医学的研究」は、入院を依頼して精密検査を行い、全対象者に健康推移などを定期的にアンケートしていった。

 血液内科が専門の鎌田さんは当初からプロジェクトに参加した。被爆で傷つけられた染色体の異常率を調べ、放射線量を生物学的に推定する手法を80年代に確立する。さらに90年代以降は、「二つ目の重複がんが増えている」ことや、脳を包む髄膜に腫瘍ができる「髄膜腫の多発傾向」が被爆者群にみられることを突き止めていった。

 知見は、広島に拠点を置く放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)による核被害者への支援、茨城県東海村で99年に起きた臨界事故では周辺住民の健康調査にも生かされた。

 被爆生存者の協力に基づく研究を、鎌田さんは「広島の地だからできたし、しなければならなかった」という。2000年原医研所長を退き、翌年に広島原爆被爆者援護事業団理事長に就いた後も調査を続ける。

 「今も苦しむ生身の人間を大学を辞めたからといって、途中で放り出すことは僕にはできない」。医師としての自負も見せた。

 対象者の病気や高齢化、また家族への配慮から追跡調査は年々難しくなる。広島県内外に住む健在の12人は、最年少は母の背で生後5カ月の時に被爆した69歳、最高齢は97歳。手紙を送り、休日や出張を利用して面会し、電話でも健康相談に乗る。そうして随時、記録を追加している。

 被爆生存者からは「生き抜いてきた強さ」を感じる。同時に「一人一人の生涯をみることで、原爆が身体的に社会的にもいかに苦しめてきたのかがはっきりと分かる」という。

 医学的資料はすぐれて個人情報だ。78人の資料をファイルに整理して残そうとするのは「核兵器の非人道性の証拠」であり、「僕がいつ死んでも、誰かが研究を引き継げるように」と被爆地の医学研究者としての願いからでもある。

(2014年6月2日朝刊掲載)