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連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 <18> 未来への伝言 動員の10代 理不尽な死

 1945年8月6日に投下された原爆は、一瞬のうちに老若男女を殺傷した。建物疎開作業に動員されていた少年少女の学徒は、遮るものもない場所でさらされた。自身も12歳の息子を失った志水清広島大教授が66年にまとめた調査によると、作業従事学徒の61.7%、ほぼ3人に2人が死去していた。親からきょうだいへと受け継がれ、原爆資料館へ託された学徒の遺品を見詰める。未来への伝言でもある、刻まれた実態や記憶をたどる。(「伝えるヒロシマ」取材班)

■血染めのシャツ

あの時代 学ぶ希望も奪われた

 白い半袖シャツは左肩から胸にかけて焼け焦げ、血の色が至るところににじむ。坂上彬(さかのうえ・あきら)さん=当時(12)=が45年8月6日、真ちゅうバックル付きの革ベルトとともに身に着けていたものだ。

 「あの遺品は、国が弟たちも死に追いやった時代の証拠なんです」と、崇さん(85)=西区山手町=は語る。穏やかな口調ながら喪失感や怒りが入り交じる。動員先から戻ることができなかった、後輩でもある広島市立中(現基町高)1年彬さんを捜して歩き回った。自らが見つけた。

 崇さんは4年生だった。「あの日」は、南観音町(現西区)の三菱重工業広島機械製作所が疎開工場を設けた現廿日市市にいた。閃光(せんこう)に続く原子雲を見て、同級生約20人と広島市内を目指す。擦れ違う老若男女は、正視できないほどのやけどを負い皮膚が垂れ下がっていた。

 東観音町(現西区)の自宅は焼けていたが両親は無事だった。しかし弟の姿はなく、市中1年生が動員された小網町(現中区)の建物疎開作業現場へ煙を突いて向かった。

 翌日も焦土の街を歩き、救護所となった己斐国民学校(現西区の己斐小)から古田、さらに草津国民学校へ。翌々日は五日市町(現佐伯区)から大野村(現廿日市市)まで回った。

 9日、大野陸軍病院の渡り廊下で寝かされていた彬さんを見つけた。「弟も私に気づき、うれしそうな顔をしました」。作業前の整列中に閃光を浴び、友達と己斐に向かって逃げる途中、軍のトラックに拾われた。もらったトマトがおいしかった。はっきりした意識で話し掛けてきた。

 兄は広島へとって返し、母が着替えを携えて向かった。だが、容体は急変してその夜に息を引き取った。

 崇さんは「とても信じられなかった」とも振り返る。強烈な放射線も浴びたことは当時は知る由もなかったからだ。

 市中同窓生がまとめた「鎮魂」(2008年刊)によると、爆心地から約800メートルの小網町に出た1、2年生は全滅。計315人が亡くなり、うち142人は遺骨も不明だった。

 崇さんは被爆の翌46年に卒業。県庁から中国配電(現中国電力)に勤めたが仕事には支障を覚えた。

 政府が「挺身(ていしん)国家緊要の職務」と定めた中学2年からの学徒勤労動員は、3年からは通年となり勉強しようにもできなかった。勤務を終えると49年から千田高(現市立工業高)の夜間課程に通った。自ら切り開くことから戦後は始まった。

 彬さんの血染めのシャツは、55年に資料館が開館すると父善作さんが寄せた。ベルトは母カヅさんの遺品から崇さんが90年に見つけた。手放さなかった母の胸中を思ったが「多くの人に見てもらうことが供養にもなる」と託した。

 今も中学生の年頃を見ると、兄弟が学徒となり死を分けるしかなかった「あの時代」を思い出すという。

 「中学校に合格したら/りっぱな軍人にならう」。彬さんはそう作文に書き残していた。「学ぶ喜びも奪われた末に弟や同級生は命まで取られた。二度とそんな時代を来させてはいけない。肝に銘じてほしい」。亡き両親の思いも刻む遺品には、元学徒として兄の強い願いが込められていた。

■生きた証し

再会の喜びつかの間

 木村幹代さん=当時(13)=は最後となった日曜日、身の回りのものを洗い、母や姉とたんすや戸棚の大掃除もした。45年8月5日の日記から。

 「天気が良いので、モンペ、ユニフォーム、ハンカチ等を一人で洗濯した/かちかちのユニフォームを着ると、ちょうどかかしが上下を着た様だと、皆が笑った」。6人きょうだいの次女だった。一家は、父が転勤して間もない国鉄廿日市駅(現廿日市市)そばの官舎で暮らしていた。

 翌朝、県立第一高女(現皆実高)1年生の幹代さんは洗いたての着衣で動員先へ向かう。広島市小網町(現中区)一帯の建物疎開作業。ハンカチは自宅に置いて出た。

 「目も開けられないほどでしたが、家族の元へ戻れたのがよほどうれしいのか、しゃべりづめでした」。姉の松野妙子さん(86)=佐伯区利松=は妹の最期をそう語る。

 幹代さんは全身を焼かれながら西側の天満川へ飛び込み、己斐国民学校(現西区の己斐小)に収容された。妙子さんの友人が見つけて知らせてくれた。

 父が駅員らと担架で運び6日夜連れ帰った。三菱重工業広島機械製作所(現西区)で被爆し、自力で戻った妙子さんも徹夜で付き添った。千田町(現中区)にあった山中高女(現広島大付属福山中高)から通年動員されていた。

 家族の必死の看護と呼び掛けのなか、幹代さんは翌7日朝に逝った。死の間際、東の方へ向かって手を合わせたという。

 妙子さんは戦後、一家で移った岩国市で結婚し娘5人を育てた。つらい記憶はほとんど語らなかった。しかし、80歳を前に「妹が生きた証しを残さんといけん」との思いにかられる。両親から受け継いだ遺品を一つ一つ整理した。日記やハンカチ、図画、書道…。「広島学徒隊 第一県女」の記章もあった。

 幹代さんの日記は「第一県女の生徒になれるのでうれしくてうれしくて朝早く目がさめていけない」(4月7日)の記述から始まっていた。残されていた兄一男さんの日記と一緒に2009年、資料館へ託した。

 在籍していた広島工専(現広島大、中区千田町)で被爆した兄は、「純潔な少年少女の悲劇も時代と共に薄れていく」と翌年に記し、48年に21歳で逝った。

 妙子さんは「未来も容赦なく奪う戦争は繰り返してはいけない」との思いから取材に応じた。心臓を昨年に手術して体調はよくない。「死ぬなんて思わず洗ったのにふびんでなりません」。ハンカチは、妙子さんが尾長小(現東区)の修学旅行で訪れた伊勢神宮で買い、贈ったものだった。

■長兄の革靴

貴重な品 親心にじむ

 崇徳中2年河野正義さん=当時(14)=と1年信夫さん=同(13)=は、八丁堀(現中区)一帯の建物疎開作業に動員され原爆死した。6人きょうだいの長男と次男。兄は加計町(現広島県安芸太田町)の実家で被爆6日後に息を引き取り、弟は行方不明となった。

 正義さんが履いていた革靴に母ミ子(ネ)ヨさんは69年、便箋に「遺書」と書いて短くいわれも記した。この年、引き取り手を捜す広島市の「原爆供養塔納骨名簿」で「信夫」さんとみられる遺骨があるのを知った。四半世紀を前に納骨して一つの区切りをつけた。

 「動員学徒にて此(こ)の靴を履いて被爆/長男正義の靴形見の品」。母の遺書文面を次女の住吉保子さん(80)=安佐南区西原=はこう推し量った。「田舎から進学する子に少しでも良いものを持たせたいという親心も感じます」。戦時下、手に入りにくい革靴は裕福だった母の親族から譲り受けたものだった。

 広島の異変を知り、運転手だった父惣市さんは翌8月7日朝、加計町から車で捜索に入る。学校や作業現場跡を回り夕方、戸坂国民学校(現東区の戸坂小)で正義さんを見つけた。

 背中にひどいやけどを負って身動きも取れず、水を欲しがるばかり。両親の懸命な看護とともに保子さんは鮮明に記憶していた。

 息子2人を同時に奪われた両親は悲嘆に暮れた。戦後に生まれた男児2人に亡き兄の名を1字ずつ取り名付けた。惣市さんは49年に事故死し、ミ子ヨさんは食料品店を営んで祖父母を含む9人家族を支えた。

 遺骨すら見つからなかった信夫さんは、市の「納骨名簿」に兄「河野正義」さんの名前が載ったことから行方が分かった。母は「信夫が正義の制服を着ていたに違いない」と言い聞かせて遺骨を引き取った。

 実家は2人のすぐ下の弟、好孝さん(77)が継ぐ。ミ子ヨさんが毎朝の仏参を欠かさないのを見て育った。8月6日は、平和記念公園にある動員学徒慰霊塔へ参るのに付き添った。母は100歳まで生きた。

 ミ子ヨさんが死去した翌2012年、革靴を資料館に寄せた。「両親の親心と慟哭(どうこく)を伝える役割を果たしてほしい」と遺書も託した。

 八丁堀の動員現場に出た崇徳中1、2年生は407人が犠牲となった。全校生徒の原爆死没者は512人を数える(「崇徳学園百二十年史」)。

(2015年7月14日朝刊掲載)