×

連載 被爆70年

伝えるヒロシマ 被爆70年 被爆学徒 <5> 防空作戦室 半地下壕 夜勤明けて

 広島城内にはコンクリート造りの半地下壕(ごう)が現存する。かつて城内に構えていた中国軍管区司令部の防空作戦室だ。被爆建造物でもある壕は、広島市がフェンスで外を囲い管理している。

 花田(旧姓森田)艶子さん(84)=安佐北区口田=は今夏、70年ぶりに壕へ足を踏み入れると「まるで昨日のことみたい…」とつぶやき、口元を両手で覆った。涙を抑えられなかった。

 爆心地から約790メートル。1945年8月6日、原爆がさく裂した瞬間、彼女はこの壕にいた。

 陸軍偕行社が運営していた比治山高女の3年生だった。同級生約90人と司令部へ学徒動員されていた。発令される空襲・警戒警報を中国地方の各防空監視隊本部などへ伝達する任務。壕には電話などの通信機器が設置され、昼夜3交代で当たっていた。

 花田さんは第2班だったという。前夜から断続的に続いた敵機襲来の情報連絡に追われ、ほとんど眠らずに「8月6日」朝を迎える。交代する班がなかなか現れない。西側窓そばの席で左耳のヘッドホンを外し、ふっと横を向いたときに閃光(せんこう)を感じた。気が付くと通信機器ごと吹き飛ばされていた。

 やっとの思いで外に出ると、交代するはずの同級生らは皮膚がぼろきれのように垂れ下がっていた。「構わず逃げて」という声がした。大勢の兵士が血みどろでのたうち回ってもいた。動ける兵隊について城外に出た。腹が裂けた人、息絶えていた馬…。

城内は野戦病院に

 「この世のものとは思えない世界」を、ぞろぞろと歩く人たちの後をついて祇園町(現安佐南区)まで逃げた。翌朝、再び司令部へ。城内は「生き地獄のような」野戦病院となっていた。言われるまま薬を塗って回るうち、口をもぐもぐさせていた級友が横たわっているのを見つけた。

 14歳だった花田さんは、壕で寝泊まりして救護に努めた。自身は血便が続いた。家族は仁保町(現南区)に疎開していた。父がいつ迎えに来てくれたのかは覚えていないが、戦争終結を告げるラジオからの「玉音放送」は疎開先で聞いたという。

 取材に応じて壕を再訪したとはいえ、花田さんはみとった級友の最期になると言葉少なくなった。同意を得て手記を引く。

 生き残った同期生が編み刊行した「炎のなかに」(69年刊)に寄せている。

 「『森田さん。アメリカがにくい。私はだめだけれど、どうしてもカタキを打って…』といっていた。私は『必ず』といって約束した。安心したのか、そのまま静かになってしまった/お父さんやお母さんもいない中で、級友は唯一人、何を考え、何を思って死んでいったのだろうか?」

 級友の学徒としての死と顧みた元学徒としての思いをそう結んでいた。

 戦後は、親族が住む県東部の女学校に一時転校したが、比治山高女を卒業。中国配電(現中国電力)に勤めて54年に結婚した。

爆風で内耳傷める

 「新婚のころは夫が何を言っているのかよく分からなかった」。笑みを浮かべて明かした。被爆の瞬間から左耳は聞こえなくなった。爆風で内耳が損傷したためだ。一人娘を授かって家庭を守り、今は夫と二人暮らし。孫は2人いるという。

 壕そばに建てられた慰霊碑前では、後身の比治山女子中高が毎年8月6日に追悼式を営む。花田さんは誘われても、「思い出すのがつらくて」とあえて参列していない。

 中国軍管区司令部に動員された3年生は67人が原爆死した。壕で生き残り証言活動に取り組む同級生の岡(旧姓大倉)ヨシエさん(84)=中区基町=によると、健在なのは6、7人になったという。

(2015年7月6日朝刊掲載)