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連載 被爆70年

[ヒロシマは問う 被爆70年] 「神話」の壁 

 広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイ号の機体と被爆資料を特別展示するというスミソニアン航空宇宙博物館(米国ワシントン)の1995年の計画は、全米を巻き込む大論争に発展した。原爆が強いた非人道的な現実を伝え、核兵器廃絶への訴えにつなげようとするとき、原爆投下を正当化する「神話」が巨大な壁として立ちはだかることが少なくない。あの論争から20年。原爆使用国の壁の現状を探った。(金崎由美)

[ヒロシマは問う 被爆70年] 幻の米原爆展の資料寄贈 スミソニアン元館長が地元文書館に 1995年計画時の文書・書簡

銀翼は今も 被害語らず

スミソニアン博物館 論争から20年 来館者ノート「原爆は大勢の日本人をも救った」

 スペースシャトルから日本の特攻機まで、巨大な格納庫に所狭しと並ぶ。銀色に輝くエノラ・ゲイ号の大きな機体は、ひときわ目立っていた。「翼長43メートル、長さ30・2メートル、高さ9メートル…」。説明板の右下に数字が並ぶ。

犠牲者数なく

 だが原爆犠牲者の数字はない。あの日のことは「戦闘中に使われた最初の原子兵器として広島に落とした」という説明にとどまる。

 首都ワシントンの中心部から西へ約40キロ。スミソニアン航空宇宙博物館の新館は、広島の原爆資料館とほぼ同じ年間130万人の入場者を誇る。

 「説明を付け加える予定は、今のところありません」。案内してくれた広報専門官のニコラス・パートリッジさん(34)が答えた。被爆地からの記者来訪に、礼儀正しい物腰は緊張しているようにも見受けられた。

 第2次世界大戦後に分解保存されていた機体は、1995年に修復を終えた胴体の一部がワシントン中心部にある本館で公開された。2003年、新館ができると、修復を終えた機体全体が常設展示になった。

 被爆50年の節目だった95年は、広島、長崎の被爆資料や被爆直後の惨状を捉えた写真も並べる展示になるはずだった。だが、退役軍人や議会の保守派などが大規模な反対運動を展開し、頓挫した。

 被害を語らぬ展示に対し、被爆者が博物館を訪れて抗議の声を上げている。だが何も変わっていない。

◆ ◆

 原爆開発の拠点となった、米西部ニューメキシコ州のロスアラモス。国立研究所の付属科学博物館に、科学者らのモノクロ写真がずらりと並ぶ。原爆開発が、「誇るべき先進技術の到達点」とされていることが一見して分かる。

 「原爆がなければ、私は生きていなかったんだよ」。ここで働くドン・キャブネスさん(68)が、人懐こい笑顔と優しい声で語った。

 第2次世界大戦末期、ヨーロッパ戦線から戻ってきた父が今度は日本との戦争に招集されることになっていた。「愛する女性とソーダ水売り場の前に座り、生きて帰ったら結婚しようと誓っていた。そのときラジオから日本の無条件降伏のニュースが流れた。翌年、私が生まれた」

 キャブネスさんのような思いは、来館者ノートにも数多く書き込まれている。「祖父が日本との戦争に送られずに済んだ。神に感謝」「戦争を早く終わらせた原爆は、大勢の日本人の命をも救った」

矛盾明らかに

 日本本土の上陸作戦は目前で、トルーマン政権は死傷者を50万人とも100万人とも見積もっていた。原爆投下が日本を早く降伏させ、原爆被害を上回るはずだった犠牲は回避された―。

 そのような神話に対し、矛盾を突く公文書や要人の証言が歴史家の研究で明らかになっている。上陸作戦の予定は11月で、米国民が戦後信じてきたほど差し迫ってはいなかった。死傷者数の推定は、トルーマン大統領やスティムソン元陸軍長官が戦後に出した根拠を欠く数字だ。

 それでも神話にこだわる人は少なくない。「死ぬはずだった」数字が大きいほど、原爆投下に対する倫理上の疑問を軽くできるかのように。

 取材先のマサチューセッツ州で会った、対日戦争で犠牲となった米兵の遺族男性(61)はこんな本音をこぼした。「原爆の話題になる時は、投下の是非論に結び付かないよう皆が気をつけている。最近は退役軍人や遺族の間でも、原爆投下が本当に正しかったのか内心分からなくなっている人もいるんだ」

 今年は広島と長崎にとって被爆70年という節目。米国では、戦勝70年の祝賀ムードが圧倒するだろう。それが原爆認識にとどまらない歴史認識の溝でもある。

スミソニアン航空宇宙博物館と原爆資料館 当時の館長に聞く

 エノラ・ゲイ号の展示計画当時にスミソニアン航空宇宙博物館の館長だったマーティン・ハーウィット氏と、被爆資料などの貸与方針をめぐって対応した原爆資料館の元館長、原田浩氏に今の思いを聞いた。

やるべきことを追求した マーティン・ハーウィット氏

 ―当初の展示計画は大きな反発を招きました。なぜだと思いますか。
 退役軍人らは、戦争の体験者こそが第2次世界大戦について語るべき立場にあると確信していると感じた。われこそが戦争の全体像を知っているのであって、過去の要人の日記や公文書を見つけてくるだけの歴史家や博物館の人間では駄目なのだと。

 ―大量に送り付けられた抗議文から、壮絶な批判の矢面に立っていたことが伝わってきますね。
 博物館としてやるべきことを全て追求したまでだ。機体の展示だけでなく、歴史的な背景についても最新の研究成果を提示する。来館者が豊富で正確な情報を得る場にする。米国と広島、長崎の両方の見方を尊重し、知ってもらう計画だった。

 ―両者に配慮するのは難題だったのではないでしょうか。
 展示目的のため、被爆資料は必須だった。犠牲者の遺品であり、被爆者や遺族の強い思いが込められている。広島市と長崎市にとって、判断に時間がかかることは理解できた。

 だが、被爆地の協力を受けられるのではないかという感触は、退役軍人側からの反対が強く表されていくほどしぼんでいった。「被爆者の支持は得られない。最後には貸してはもらえないだろう」と強く感じるようになったことは確かだ。

 ―20年後の今なら、当初意図したような展示ができると思いますか。
 昨年は第1次世界大戦から100年の節目だった。欧州が統合し、かつての敵国同士の関係性は変化した一方、(オスマントルコ帝国によるアルメニア人虐殺をめぐり)トルコとアルメニアは犠牲者数や帝国政府の関与について、まったく違うストーリーを持っている。見解は大きく隔たったままだ。

 歴史上の出来事が「国家のアイデンティティー」「国家の歴史」になれば、記憶は、祖父母や親に名誉を授けたい子どもの世代に受け継がれる。世代交代すれば状況が変わるわけではない。日米間ではどうかというと、私は動向を追っておらず答えられない。

 ―保管書類を昨年になってスミソニアン文書館に委ねました。理由は。
 スミソニアン協会の評議員には、われわれの展示計画に絶対的に反対していた連邦議員が今もいる。ほかの展示で、公開させたくない展示や資料を破棄させようとする圧力もあると聞いていた。資料を譲っても破棄されるのではないかと強く警戒し、関係者を通して大丈夫だという確信を得る必要があった。

 大きな議論を呼んだ事象について、研究者が光を当てる試みは大切なことだし、資料は必ず役に立つと思う。

 ―歴史を丹念に探ることについて、常に誠実でいるという印象を受けます。
 文書館でも所蔵されている文書だとしても、物事の背景を捉えるためには1次資料があればあるほど良い。復員軍人協会による書き込みが入った展示台本もあるなど、非常に興味深いだろう。

 1931年、チェコ生まれ。ドイツ軍侵攻で祖国を追われ、トルコを経て米国に移住した。マサチューセッツ工科大で博士号(宇宙物理学)。コーネル大天文学科長などを経て名誉教授。87~95年、航空宇宙博物館長。現在、航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)のプロジェクトに携わる。

諦めず発信するしかない 原田浩氏

 ―航空宇宙博物館とのやりとりは、どのようなものだったのでしょうか。
 私が原爆資料館の館長に就任したばかりの1993年4月、ハーウィット氏たちが広島市を初めて訪れ、平岡敬市長と懇談した。被爆関係資料の貸与要請をめぐり、協議した。

 何しろ世界トップクラスの米博物館からの打診。被爆の実態と、核兵器廃絶への願いが米国に伝わるのであれば、重要な機会になる。とはいえ、原爆を落とした爆撃機と資料をどんな文脈で並べるつもりなのか、読めなかった。原爆投下の肯定を補強する使われ方なら許されないからだ。

 ―慎重にならざるを得ないですね。
 博物館側は、黒焦げの弁当箱などの特定の資料や写真に関心を示したが、家族から託された大事な遺品だ。貸与を検討するにしても、被爆者の心情を理解してもらうのが前提となる。原爆の日に合わせて、ぜひ広島に来てもらいたいと思った。他の日とは全く違い、感じるものが必ずあるはずだ、と私の一存で呼び掛けた。ハーウィット氏は家族で広島を再訪した。

 一緒に原爆供養塔に行き、平和記念式典に出席した。無言の表情の中に、犠牲者への思いがにじみ出ているのを感じた。ヒロシマの心は通じたと思った。最後は市長が決めることだが、この人なら被爆資料を貸与してもいいのではないかと思った。

 ―結局は事実上の中止に追い込まれていくのを、どう見ていましたか。
 広島市が被爆資料を条件付きで貸与する方針を決めたのは93年11月だが、すでに博物館側への圧力が強まっているとは知っていた。

 最初の展示台本が届くまで散々待たされた上、広島、長崎の思いと懸け離れたものに書き換えられていった。借りたい、と向こうから言っていた被爆資料の扱いを一体どう考えているのか、直接会って説明を受けたかった。だが、ハーウィット氏はあまりにも困難な立場に追い込まれていた。

 ―原爆投下の肯定という高い壁は米国以外にもありますね。
 特別展が中止になった後の95年7月、アメリカン大で開かれた原爆展に平岡市長らと臨んだ。討論会で、アジア系の参加者から「あなた方は戦争中にどれだけの人を殺したのか」という批判が相次いだ。しっかり向き合うべきであり、原爆資料館の展示にも反映している。一方で、戦争責任は被爆者ばかりが背負えばいいものでもない。皆で考えるべき問題だ。

 ―一連の経緯から今、何を感じていますか。
 違う角度から見れば、それまで米国民の間で静かに信じ込まれてきた原爆投下肯定論を白日の下にさらす契機となったと思う。

 原爆使用を正当化する主張が渦巻く中でも、被爆地の訴えをどう届けていくべきなのか。被爆70年の今年まで引きずっている課題だ。近道はなく、被爆者や市民一人一人ができるだけ多くの場で、決して諦めずに交流、発信していくしかない。

はらだ・ひろし
 1939年、広島市南区生まれ。6歳のとき爆心地から2キロの広島駅で被爆した。早稲田大を卒業し63年、広島市職員。93年4月~97年3月、原爆資料館長。市文化財団理事長などを歴任。現在、被爆体験証言や平和行政に関する講演をしている。

史実を直視 変わる若者

大学の模索

原爆投下 問い直す

 原爆と戦争の歴史をより広く、深い視点から理解しようという模索が米国内にもある。バージニア州立のジョージ・メイソン大。原爆をめぐる歴史研究で著名な歴史学者マーティン・シャーウィン教授(77)が授業を持っている。

 座学や映画鑑賞を通して戦争史を学ぶ「映像に見る冷戦」。週1回、学部生約20人が出席する。原爆投下の歴史もあらかじめ学んでいる。授業時間を割いてもらい学生に質問した。

 「広島と長崎に原爆が落とされた。そして第2次世界大戦が終わった。高校で習ったのはそれぐらいだった」と学生たち。大学では、原爆によってソ連に力を誇示する目的もトルーマン政権にはあったという側面や、原爆被害と復興などについて学んだという。

 3年パトリック・ウルバートンさん(29)は「原爆は良くないことを説明するには歴史上の知識が必要だ。1次資料も手繰りながら、歴史を単純化せずに見ることで考えが深まった」。

祖父母批判できず

 4年エミリー・マーティンさん(22)も「原爆投下は必要だった」という一般的な言説を問い直すようになったと語る。だが、上の世代とも気付きを共有できるかと聞くと、首を横に振った。「祖母はマンハッタン計画に関わっていたと聞いた。大学で冷静な視点で歴史を学んでも、祖父母らがよりどころとする『ファミリー・ヒストリー』は批判できない」

 シャーウィン教授は、若い世代の学びが米国を変える力になることを期待する。だが「原爆をめぐる論争は限りなく続く」とも断言する。「広島、長崎への原爆投下を否定することは、自国が世界一素晴らしいと信じる『米国例外主義』と相いれないから。史実を排除してでも正当化する動きは常にある」

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 史実を発掘する歴史研究の成果が積み重なっても、米国民にはなかなか届いていない。「人間は都合の悪いことには目を背け、耳をふさぐ。特に原爆被害への関心が薄く、知識もない若い世代に働き掛けたい」。ワシントンのアメリカン大歴史学部の研究室で迎えてくれたピーター・カズニック教授(64)が力を込めた。

 映画監督のオリバー・ストーン氏と組み「もうひとつのアメリカ史」全4巻を著し日本でも話題を呼んだ。米国で信じ込まれている歴史の神話を一般向けに、根本から問いただす内容で、原爆使用にも焦点を当てる。

市民レベルの対話

 アメリカン大ではスミソニアン航空宇宙博物館の特別展が頓挫した年、原爆展が開かれた。広島と長崎の被爆資料が持ち込まれ、反響を呼んだ。20年後の今年、故丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」6点を日本から運び込み、米首都では初めて展示する計画が進んでいる。この時期、広島、長崎両市が共催するヒロシマ・ナガサキ原爆展も開かれる。

 両方の受け入れに関わるカズニック教授は「米国の人たちが原爆のむごさと向き合い、核兵器廃絶と平和な世界のために力を尽くしてきた被爆者を知る機会になってほしい」。日米の市民レベルの対話を通し、共に歴史と向き合う意義を強調する。

サダコに共鳴 平和の像

子どもたちの願い

 被爆資料の展示をめぐって米国が揺れていた時期、ニューメキシコ州では子どもたちが大論争の荒波を受けていた。その渦中にあったブロンズ像が今、同州アルバカーキ市の国際気球博物館の敷地に置かれ来館者を迎えている。

 被爆50年の1995年8月に完成した「子どもたちの平和の像」。直径2・5メートルの球形で、約100カ国の子ども3千人が制作した動植物のオブジェをあしらう。生きとし生けるものが戦争で命を脅かされることのない、平和な地球を表現する。

 建立したのは地元の小中高生たち。10年ほど日本に暮らした経験があるキャミー・コンドンさん(76)が、故エレノア・コアさんの著作「サダコと千羽鶴」を人形劇で上演したのがきっかけになった。広島で被爆し12歳のとき白血病で亡くなった佐々木禎子さんや、平和記念公園(広島市)にある「原爆の子の像」の建設運動について知った小学生から、自分たちも何かしようと声が上がったという。

1ドル募金を展開

 活動の輪は米国外にも広がった。建設費を賄う「1ドル募金」を展開すると、広島を含め63カ国の9万人から集まった。像のデザインも子どもから募った。「自ら考え、行動する子どもから本当に多くを学んだ」とコンドンさんは振り返る。

 問題は設置場所だった。アルバカーキの北にある原爆と核兵器開発の拠点、ロスアラモスに置いてもらうというのが当初の計画だったからだ。

 ロスアラモスの地元議会は94年11月、この地にふさわしくないとして平和の像の受け入れを拒否。行き先は宙に浮いた。アルバカーキ市博物館が救いの手を差し伸べたが、今度は退役軍人団体が撤去を強硬に迫った。「広島原爆の日に除幕式をすることにもクレームが付いた。ならば、と8月の1カ月間、いろんな団体が入れ替わりで毎日セレモニーを行った」とコンドンさんは笑う。

移転は4ヵ所目

 その後も「定住」には遠く、2013年8月に4カ所目となる「引っ越し」をした。アルバカーキ市博物館で平和の像の受け入れを担当し、現在は気球博物館の学芸員であるマリリー・ネイソンさん(58)が尽力した。

 ここは全米から熱気球の愛好家が集う場として知られる。展示の柱は第2次世界大戦末期に日本から米本土に飛来した風船爆弾だ。平和の像の受け入れに合わせ、建立活動を記録する写真とともに、大久野島(竹原市)で風船爆弾の製造のため学徒動員された元美術教師、岡田黎子さん(85)=三原市=が体験を描いた絵を展示室に並べた。

 気球と平和の像。結び付きは一見乏しそうだが「戦争に翻弄(ほんろう)されるのも、平和な未来を担うのも子どもたちだと気付く。誰もが一致できる点」とネイソンさんは話す。

 「平和の像がここで愛されるのも素晴らしい」とコンドンさんは思い始めた。とはいえロスアラモスが喜んでこの像を受け入れてくれる日を願う気持ちは変わらない。

被爆資料をめぐって 「誇りと愛国」の波 展示阻む

 「広島の苦しみを伝えるには、実際に被爆した資料が欠かせない」。1993年4月、スミソニアン航空宇宙博物館の館長だったハーウィット氏は、広島市を訪れて被爆資料の貸し出しを要請した際そう述べた。同年11月に市が提示した条件は、核兵器使用の残虐さを訴え、核兵器廃絶に貢献できる展示にすることだった。

 被爆資料や体験証言、歴史文書などあらゆる手掛かりを通して、米国民に「きのこ雲の下」の実態を胸に刻んでもらう。機体を展示する以上、それが最低限のバランスだ、という認識が双方にあったろう。

 だが、米国の国内事情は違っていた。反発した退役軍人が展開した署名活動の文面が全てを物語る。エノラ・ゲイ号の展示は「誇り高く、愛国的でなければならない」。

 原爆のむごさを印象づける資料は、エノラ・ゲイ号の崇高な任務に対する侮辱とされた。原爆投下は必要だったという神話に沿わない展示品や手法は攻撃された。圧力を受けて展示台本は変更を重ね、博物館側が借りたがっていた「黒焦げの弁当箱」や長崎の「溶けたロザリオ」は展示品リストから消えた。原爆と戦後の核時代との連関を想起させる展示全体のタイトルも、書き換えに。被爆地の困惑は増幅した。

 「空軍協会が始めた巧妙な情報操作に完全に乗り、米世論を誘導した報道機関の責任は重大だ。博物館側が早々に削った台本の問題箇所でも、最後まで残っているかのように報じ続けた」。第2次世界大戦の歴史研究の第一人者で、特別展の諮問委員だったスタンフォード大(カリフォルニア州)のバートン・バーンスタイン名誉教授(78)は、最近の出来事のように怒りをあらわにする。

 展示実施の望みがついえたのはバーンスタイン氏が発掘した資料がきっかけだった、とハーウィット氏は自著で記している。

 原爆を使わずに日本上陸作戦を行った場合の米軍の死傷者数について、「6万3千人を超えることはない」と、トルーマン大統領と軍中枢が会議で推定していたと読み取れる文書だ。ハーウィット氏は、展示パネルに書く予定だった「25万人」を削ると決めた。

 反発は最大値に達した。歴史研究の成果や実物資料をできるだけ取り入れようとする姿勢は、「誇りと愛国」の波にのまれた。

 展示台本の第1稿を読むと、被爆地から異論も出そうな部分もある。だが米国にとって過激とは感じられない。航空宇宙博物館らしく、機体の技術的な側面をしっかりと紹介。乗員の任務の様子を生き生きと描く。論争が続くテーマには、多様な文書や証言を掲げて見学者に問い掛ける手法も取り入れていた。

 「連邦議会に予算を握られている博物館だ。本館は政治家やロビイストが集まる議事堂からすぐ。限界はあった」とバーンスタイン氏は語る。「日本の博物館も国内で論争を呼ぶ問題に取り組めるだろうか」。歴史の対話につなげるには、自国の被害にとどまらない、戦争の全体像を見詰めるべきだと説く。

エノラ・ゲイ号
 広島に原爆「リトルボーイ」を投下した爆撃機。1945年8月6日は、同機と科学観測機、写真撮影機の計3機で現在の米自治領テニアン島から出撃した。機体の名前はポール・チベッツ機長の母の名前とされる。3日後に出撃したボックスカー号が長崎に原爆「ファットマン」を投下した。ボックスカーは、オハイオ州の国立米空軍博物館で展示されている。

スミソニアン協会
 米国の首都ワシントンに本部を置く学術機関。1846年、英国の化学者スミソンの遺志で、「人類の知識増進」を目的に設立された。国立自然史博物館など19の博物館と国立動物園、研究機関を運営しており、世界最大の博物館群といわれる。航空宇宙博物館はワシントンDCに本館と、郊外のバージニア州に新館がある。

米国例外主義
 米国の価値観や行動は、他の国とは質的に違うという考え。建国の理念にさかのぼり、米国が市民の自由と人権、平等、民主主義を特別に体現してきた国だという自負が根底にあるとされる。国際社会における単独主義的な行動を米国が正当化する根拠としても引き合いに出される。

(2015年2月28日朝刊掲載)