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原爆記録写真

あの日5枚の「証人」 松重美人さん撮影ネガ <下> 生きている資料

被爆の惨状 今に投影 継承「見てもらってこそ」

 路面電車と車が忙しく行き交う御幸橋。西詰めには、松重美人さんが1945年8月6日にその場で撮影した写真パネルが設置されている。「被爆当日と現在の広島を同時に感じられる場所です」。平和をテーマとした自転車ツアーを手掛ける石飛聡司さん(40)=広島市南区=は、国内外からの観光客を必ずこの場所に連れてくるという。

 参加者は、かつて繁華街としてにぎわった平和記念公園(中区)のレストハウス前を出発。被爆建物の旧広島大理学部1号館(同)、広島赤十字・原爆病院(同)旧本館の爆風でゆがんだ窓枠などを見学し、御幸橋に至る。爆心地から約2・2キロ。被害エリアの広さを感じながらの移動だ。

 「ここで撮られた写真だと伝えると、和やかな雰囲気が一変する」。赤ん坊を抱いて叫ぶ女性、逃げてきた女学生たち―。語り伝えられてきた当時の状況や、松重さんがあまりのむごさにためらいながらシャッターを切った事実を伝える。そして、皆で市中心部の方向を振り返る。「街の風景が、それまでと全く違って見える。松重さんの写真が、あの日と今をつないでくれる」。自転車ツアーと写真の持つ力が掛け合わされる瞬間だ。

 松重さんが撮影した計5枚は、被爆直後の市民の惨状を捉えた唯一の現存写真。ただ、その翌日以降から復興期にかけての広島市内を捉えた写真は膨大な数で、市民の目に触れない資料も多い。「価値を知ってもらうには、見てもらってこそ」。広島市の写真家明田弘司さん(2015年に92歳で死去)の資料を整理する有志のグループ「明田フォトプロジェクト」の梅森美帆さん(41)=安佐南区=はそう語る。

 明田さんは、写真家の故名取洋之助さんの助言を受け復興期を撮り続けた。人々の暮らしや路地裏の風景、平和大通りや太田川放水路の整備で変わりゆく街―。プロジェクト関係者は、残された約4万9千点のネガをデジタルデータ化し、撮影の時期や場所、被写体を一つ一つ分析。目録を整え、市公文書館への寄託、写真展の開催などを重ねている。

 「写真は天国の明田さんから借りているもの。さらに後の世代へつなぐため、本人ならどんな継承の形を望むかをいつも考えている」。守るだけでは死蔵につながる。安易なインターネット公開は、無断利用などで価値を損ないかねない。今は夏を目指し、写真集の編さんを進めている。

 被爆関連資料を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授(74)=呉市=は「広島の地で、市民がそれぞれの立場から継承に取り組んできた。連綿と続く努力を正当に評価し、さらに引き継ぐことができているだろうか」と問い掛ける。

 松重さんも、被爆直後の現場に居合わせ、記録者としての責務を背負った一人だった。晩年まで病を押し、「広島と長崎の惨劇が二度とないように」と写真を見せての体験証言を続けた。「この写真の役割は、核兵器がなくなるまで終わることはない」とも書き残している。

 松重さんのネガだけでなく、受け継ぎ、生かすべき資料は大量に存在する。継承への責務を負うのは、76年後の広島に居合わせた私たちである。(明知隼二)

(2021年3月30日朝刊掲載)

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あの日5枚の「証人」 松重美人さん撮影ネガ <上> 唯一の記録

あの日5枚の「証人」 松重美人さん撮影ネガ <中> 劣化の危機