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原爆記録写真

あの日5枚の「証人」 松重美人さん撮影ネガ <上> 唯一の記録

御幸橋「私もここに」 惨禍の記憶を共有

 原爆資料館(広島市中区)本館の展示導入部に、1945年8月6日の御幸橋西詰めの光景を捉えた2枚の写真がある。約2メートル四方に引き伸ばされ、傷ついた市民の姿を伝えている。中国新聞社の写真部員で、中国軍管区司令部の報道班員でもあった松重美人さん(13~2005年)が午前11時すぎに撮った。

 県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年だった西岡誠吾さん(89)=廿日市市=はその場にいた。爆心地から約2・2キロ。「何が起きたのか、どうすればいいのか、何も分からなかった」。千田町(現中区)の校内で被爆し、左半身にやけどやけがを負った。御幸橋まで逃れたが、上級生と別れ途方に暮れていた。

 そこは臨時救護所が設けられ、爆心地方面からの避難者と、救護に駆け付けた人たちが交錯する前線となっていた。力尽き横たわる人、川面の遺体―。混乱の中、西詰めの派出所近くに、腕章を着けた軍人風の男性がいた。手にはカメラが。「階級章も着けていない。スパイかと」。周りでささやき合う声が聞こえた。

 松重さんは「1枚目のシャッターを切るまでに30分は躊躇(ちゅうちょ)し、この辺りをうろうろした」(「広島壊滅のとき」1981年刊)と記す。西岡さんが見たのは、惨状を前に撮影をためらっていた松重さんとみられる。

 後年に写真を初めて目にし、「私はここにおった」と思わず口に出した。写真の中の被災者たちと同じように、やけどに油を塗ってもらった。「写真を見ると今も、あの時の心細さがよみがえります」

 女学生が名乗り出たこともあった。広島女子商2年だった河内光子さん=2018年に86歳で死去=は、1973年に写真が市内で展示されたのを機に、セーラー服の後ろ姿は自分だと公表。晩年には小学校での証言もした。

 一方、河内さんの隣に写る同級生の女性(89)は、あえて自らを明かすことはしなかった。「あの悲惨さは、語っても理解してもらえない」との思いからだ。河内さんと一緒に逃げる途中、御幸橋たもとの土手でけがをした丸刈りの男の子に出会った。付いて来ようとしたが、置いて逃げた。自責の念は今も消えない。

 「写真には写り込んでいない、つらい現実がたくさんあることも忘れないで」。あの日の光景を刻む6×6センチ判のネガには、松重さんを含めて同じ瞬間を共有した者たちの記憶も刻まれている。(明知隼二)

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 被爆直後の市民の惨状を記録した唯一の現存写真として、松重さんのネガフィルム5点が市重要有形文化財に指定された。その意義と継承への課題を探る。

(2021年3月28日朝刊掲載)

被爆当日ネガ 市重文に 元本社カメラマン松重美人さん撮影の5点 広島市教委、初指定

1945年8月6日 松重美人さんのネガフィルム5点 広島市文化財指定 人間の惨禍を記録

子や孫へ 継承に生かして 故松重さんのネガ 広島市重文に 遺族 保存環境向上に期待

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