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連載・特集

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <1> 最後の親友

生き延び 家族と交流も

 広島の原爆で亡くなった女子学生・河本明子さんの両親や親友、音楽の先生たちは戦後、鎮魂の思いを胸にそれぞれの人生を歩んだ。明子さんを巡る物語と平和への思いは、遺品の被爆ピアノに心を寄せる人々の手で未来へ向け、奏でられる。(西村文)

 冬用のセーラー服姿で、仲良く肩を並べる2人の少女―。4月22日付の本連載第1部に登場した古いモノクロ写真に、岩田かほるさん(78)=広島市南区=の目が留まった。「叔母の面影がある」

 明子さんの両親が保管していたアルバムに貼られていた1枚。左は18歳の明子さん。その隣は、岩田さんの叔母である中村皎加(きよか)さん(旧姓小倉、1997年に71歳で死去)であることが分かった。44(昭和19)年当時、2人は広島女学院専門学校(現広島女学院大)に通う同級生、それも大の親友だったことが浮かび上がった。

 写真を詳しくたどるために、岩田さんたち親族のほか、明子さんの遺品のピアノを所有する「HOPEプロジェクト」の二口とみゑ代表たちに中国新聞社に集まってもらった。親族の証言によると、皎加さんは広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)を卒業。女学院専門学校に進学して明子さんと同じクラスになり、仲良くなった。

日記に残る青春

 明子さんの44年1月の日記を開くと、母を病気で亡くした皎加さんに寄り添う気持ちがつづられている。「淋しい思ひをさせない様に慰めて上げねばならない。ますます友情をあつ(く)して慰めて上げねばならない」「気の毒で(軍施設での作業中)ずつと思ってゐた」。互いの家に泊まるほどの仲だった。

 戦況は悪化の一途をたどり、通年の学徒動員が始まっていた。44年の日記によると、明子さんたち女学生は広島陸軍兵器補給廠(しょう)で機関銃の弾を磨く作業をはじめ、陸軍病院で負傷兵士を看病する、専売局でたばこを箱詰めする、民間の缶詰工場で原料のフキを切る―などの仕事に従事していた。

 戦時下で精いっぱい青春を謳歌(おうか)する2人の姿もまた、日記から読み取れる。学校帰りに明子さんの家で「べちゃべちゃ」とおしゃべりで盛り上がり、「母は『よくもあんなに話の種がある事よ』と感心してゐた」。一緒に「芝間先生の所」で茶道、華道の稽古に励んだ。どちらも歌が好きだったようで、各校の生徒が集う発表会に誘い合って参加した。

 45年8月6日、明子さんは爆心地から約800メートルの八丁堀(中区)付近で学徒動員中に被爆。翌日、三滝町(現西区三滝本町)の自宅で両親にみとられながら息を引き取った。原爆を生き延びた皎加さんは戦後、結婚して中村姓となった。明子さんの父、源吉さんの53~56年の日記には、中村一家がしばしば登場する。「毎年欠かさず原爆の日に来て呉れるのは嬉しい」「卓司(史)君は大きくなり、三月生まれた誠吾君も元気な好い子であった」。皎加さんをわが娘のように、2人の息子を孫のように思っていたことが伝わってくる。

「あの日」語らず

 皎加さんは被爆者健康手帳を持っていたが、家族に「あの日」のことを語ることはなかった。岩田さんは自身の母で、皎加さんの姉にあたる澄江さんから生前、「段原日出町(南区)の自宅にいて、奇跡的に助かった」と聞いた。皎加さんも自宅にいたか、同級生の多くが動員されていた東洋工業(現マツダ、広島県府中町)にいた可能性が考えられる。

 「親友が亡くなり、自分だけが生き残った悲しみを口に出さず、押しとどめていたのでは」。明子さんの日記に触れ、若き日の母を知った長男の卓史さん(70)=西区=は、母が原爆について何も語らなかった胸中を思う。次男の誠吾さん(67)=同区=は、明子さんが好きな歌として日記に書き留めていた「早春賦」を、「母もよく口ずさんでいた」と懐かしむ。春を待ちわびる少女2人がほほ笑むモノクロ写真は、皎加さんが終生大事にしていた古いアルバムにも貼られていたという。

(2020年10月13日朝刊掲載)

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <2> 二つの被爆楽器

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <3> 復興のメロディー

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <4> 日米の懸け橋

平和を奏でる明子さんのピアノ 第4部 戦後、そして未来へ <5> 次世代への継承

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