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[戦後75年 二つの被爆地 中国・西日本2紙共同企画] 語り継ぐ 志を共に

 被爆者の平均年齢は83歳を超える。体験を語る活動ができる被爆者は、年々減っているのが現実だ。広島市は「被爆体験伝承者」、長崎市は「家族・交流証言者」として、被爆者から体験証言を受け継いで修学旅行生や観光客に語る人たちを養成している。新型コロナウイルスの感染拡大の影響を大きく受けながら、今年も新たな担い手が加わった。両被爆地の現状をみる。(中国新聞・新山京子、西日本新聞長崎総局・坪井映里香)

広島 恐ろしさ 体験者の言葉で

伝承 時間との闘い

 9月上旬、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)の研修室で、青木圭子さん(68)=安佐北区=が東京からの大学生たちに語り掛けていた。「被爆体験伝承者」として梶本淑子さん(89)=西区=の体験を受け継ぐ。

 梶本さんは、14歳の時に爆心地から2・3キロの軍需工場で被爆した。死体が転がる中を必死に逃げた。青木さんは、その様子を描いた絵を見せながら「あんな地獄は二度と見たくない。誰にも見せたくない」と梶本さんの言葉で訴えた。

 広島市は2012年度に養成制度を始めた。5年以上活動できることが条件で年齢は問わない。研修期間は3年。原爆被害や世界の核状況などを学んだ後、特定の被爆者から指導を受け、その被爆者について講話の原稿を仕上げていく。

 本年度は20~80代の150人が活動しており、被爆2、3世は約4割。19人が県外在住者だ。フィリピン在住で、外国人向けに英語で話している人もいる。原爆資料館での活動日は1日3回、来館者に講話をするが、コロナ禍の現在は休止中。個別の要請には応じている。昨年度は県外の学校などへの派遣を合わせて約1300回、約3万7千人に伝えた。広島、長崎とも18年度から市外派遣の旅費などを国が補助している。

 青木さんは長崎市出身。二つの被爆地に縁を持つ身として学ぼうと、20年前に資料館を案内するピースボランティアに参加。15年に伝承者1期生としてデビューした。「体験者の言葉が一番だが、誰かが受け継がなければ原爆の恐ろしさは忘れられる」。青木さんを含めて10人が、梶本さんの体験を語っている。

 入市被爆者や幼くて当時の記憶のない被爆者が、他の被爆者を受け継ぐケースもある。入市被爆した末岡昇さん(82)=東区=は最初に伝承者になり、翌年から自分の体験証言も始めた。「原爆で負った心の傷は自分だけじゃないと知った。両方の活動を続けたい」

 本年度は、8都府県の20~70代の42人が今月から研修を始めた。コロナ禍で例年より約4カ月遅れだ。大阪府守口市の理学療法士川端めぐ美さん(24)は「同世代の関心の低さに危機感を抱き、参加した。しっかり学び、核兵器の恐ろしさを伝えたい」と意気込む。

 熱心な研修生が多い一方で、課題もある。これまで研修を開始した人は587人だが、仕事や家庭の都合で3年もの長丁場を終えられない場合も少なくない。

 講師役の被爆者は本年度、70~90代の12人。途中で亡くなったため、他の被爆者の支援を得ながら3年間の研修を終え、遺志を継いだ研修生もいる。市の稲田亜由美・被爆体験継承担当課長は「研修の進捗(しんちょく)状況に合わせて対応していく」と話す。次世代継承も時間との闘いだ。

長崎 「あの瞬間」 伝え方を模索

絵や音楽 心動かす

 長崎では、被爆体験を第三者が語り継ぐ被爆地の証言者を「家族・交流証言者」と呼ぶ。2014年に長崎市が始め、現在は15~78歳の38人が登録。うち26人は被爆者の家族以外の「交流証言者」だ。

 「グォー、と持っていかれるような巨大な力が私の体を吹き飛ばしました」

 9月上旬、長崎原爆資料館。交流証言者の一人、長崎大4年の坂本薫さん(22)=長崎県長与町=は迫るような口調で「あの瞬間」を語った。

 13歳のとき爆心地から1・3キロ地点で被爆した丸田和男さん(88)の体験だ。背中の一面に突き刺さったガラス破片の痛み、母を火葬した被爆地の惨状、原爆症への恐怖-。丸田さんの体験を描いた絵をスクリーンに映しながら話す。

 証言者を志したのは、大学1年の秋。被爆者の手記を読む授業で、県外出身の同級生から漏れた私語や笑い声にショックを受け「原爆を知らない人にも響く講話を」と考えたからだ。葛藤もある。原爆を身をもって知るわけではない。「あの瞬間」どんな衝撃が走ったのか。音が響き、どんなにおいが充満していたのか。小中学校の平和学習などで「体験」を語りながら、2年目の今も模索を続ける。

 家族・交流証言者の養成は19年から長崎市の委託を受けた公益財団法人「長崎平和推進協会」が担っている。証言者を目指す人は毎年秋に推進協会が開く被爆者との交流会に参加し、どの被爆者の体験を受け継ぐか選ぶ仕組みだ。今年は9月19、20日に開かれ、18人が参加した。

 約1年半の準備と審査を経て証言者となる。この間、被爆体験の聞き取りと原稿の推敲(すいこう)を重ね、話し方講座を受講したり、核兵器を取り巻く国際情勢を学ぶ。坂本さんのようにスクリーンを背景に語る人もいれば、バイオリンを奏でて聴衆を引き込む人もいる。

 この20年、「生かされた」身として語り部の活動を続けてきた丸田さんはこれまでに5人の証言者に体験を託した。だが坂本さんを除く4人は結婚で県外に移るなどして、講話の機会を事実上失っているという。もどかしさを抱きつつも、丸田さんは「被爆者がいなくなる時代は近い。若い人につたえてもらうしかない」と思っている。

 坂本さんは来春から長崎県内の会社に就職し、活動を続けるつもりだ。「より多くの世代、国籍の人に響く講話をしたい」

(2020年10月13日朝刊掲載)

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