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連載・特集

緑地帯 大上充子 広島俳句今昔 <2>

 私が編集長を務める「早苗」は俳誌「馬醉木(あしび)」の系統となる。その「馬醉木」の主宰だった水原秋桜子は、原爆投下から7年後の1952年に広島を訪れている。その際、宮島の句は秀作を残したものの、残念ながら広島の句はついに1句も発表されていない。

 著名な俳人はそれぞれその分を心得ているのかとも思う。広島の句は、原爆の体験者である広島の俳人たちによって後世に伝えられるべきであると、暗にほのめかしたのかもしれない。

 「早苗」の主幹および編集長発行人だった故宮原双馨は被爆者だった。「私はつぶれた家から2カ月余り、ほとんど一歩も出なかったと言ってもよい。しかし俳句を作る上からいえば、もう少しあちこちとその惨状をしかと見ておけばよかったと思う」という言葉を残している。その宮原が詠んだ句を紹介したい。「汗垂りて屍を埋(う)むそこも焦土」「瞼寒む廃墟の壁に平和の字」

 広島俳句協会の結成は被爆から10年余りたってからとなる。56年に13結社(焼野、芭蕉、夕凪、廻廊、早苗、同人、ホトトギス、薔薇、天狼、雪解、をがたま、雨月、青玄)の代表者たちが集まり、「広島俳句懇話会」としてスタートした。

 第1回の合同俳句会は、その年の11月25日、広島市内の集会場で開かれた。応募句は1350句、参加者は100人を超す大盛況だったと記録されている。春秋2回の俳句大会を開催。先生方もみな若く情熱的で活動にも熱が入っていた。(広島俳句協会事務局長=広島市)

(2020年11月11日朝刊掲載)

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