×

連載・特集

[戦後75年 二つの被爆地 中国・西日本2紙共同企画] 証言に込めた願い

 被爆75年の今年、被爆者の体験証言活動は、新型コロナウイルスの感染拡大により大きな試練に直面した。そんな中、核兵器禁止条約が来年1月、発効にこぎ着ける。「あの日」からの苦しみを懸命に語り、日本と世界を動かしてきた被爆者の声。私たちは何を受け継いでいくべきだろうか。広島と長崎、2人の当事者に聞いた。(中国新聞・桑島美帆、西日本新聞長崎総局・徳増瑛子)

長崎 浦部豊子さん(90)

原爆 脳裏にずっと。絶対にだめ

 ≪被爆者へ取材依頼すると、気持ちなんて分かりっこない、と断られることが度々ある。被爆から75年たっても語れないというのは、どのような気持ちなのだろうか。長崎市に住む浦部豊子さん(90)を訪ねた。≫

 県立長崎高等女学校3年の15歳のとき、被爆したのは学徒動員された三菱兵器製作所大橋工場(爆心地から1・1キロ)でだった。被爆後、工場から逃げ出すと、地獄のようやった。真ん丸に膨れた人とかね。馬もいた。真っ二つに割れた小さな男の子の顔もあった。川は水を求める人が集まっていて、時間がたつとその人は増えていったよ。

 夫(93)もあの日、同じ兵器工場の設計事務所で働いていて、原爆を受けた。自分の母と、きょうだい4人が亡くなって。父と一緒に母、妹2人の遺体を焼いたって。弟2人は死骸すら見つけることができなかったそうです。遺体は焼いたけど、入れるものがないから喉仏だけを持ち帰ったってよ。夫はそのことを思うと、涙も出きらんって言って、あまり語りたがらないんです。

 実は、夫が同じ工場にいたことは、結婚してしばらくたったときに知りました。ある人が私に被爆体験を教えてくれって頼んできて。そしたらご主人も被爆者だったら教えてくださいって。その時は断ったけれど、その後、また来られたから。それで(夫は)重い口を開いたの。夫の父からは、当時の状況を聞いたことはあったけれど、本人の口からは聞いたことがなかった。かわいそかったなぁって思います。夫の気持ちはよく分かります。

 ≪被爆者と話すと、放射能の影響を今でも受け続けていることが分かる。体にガラスの傷が残っている人や原爆症で苦しみ続けている人…。≫

 核はただの爆弾ではない。被爆後、しばらくは歯茎が腫れ、髪を洗うと髪がござって抜けていた。その記憶が脳裏に焼き付いていて、今でも自分で髪を洗うことはできず、週に1度、美容院へ通っている。

 原爆で耳にガラスが入った。戦後、母が耳からガラスが出ることを心配し、病院へ連れて行ってくれた。そしたら鼓膜が引っ込んで傷ついているっていうことが分かって。今は大丈夫だけど、年取ったら心配ですね、と言われた。医者の予言通り、聞こえづらくなった。原爆は体の組織をダメにする。いつどこがおかしくなるか分からない恐怖がある。原爆はね、絶対に使ってはいけない。

 ≪コロナ禍の中、規模を縮小して行われた長崎市の平和祈念式典。式典で黒のハンカチを握りしめて涙を拭う女性などを見て、被爆者の思いは75年たっても変わらないと感じた。浦部さんは遺族代表として献花台に進んだ。≫

 原爆では友達がたくさん亡くなった。(式典では)生き物を殺すということがどのようなことか、いろいろ考えた。

 父の「原爆で草木は100年生えないよ」という言葉を思い出す。「だから生きた体は大事にせないかんばよ」って。

 でもちゃんと(草木は)生えてきた。私たちも生き延びている。どんなにつらいことがあっても、ちゃんと-。

広島 梶本淑子さん(89)

時間は今しかない。若者に託す

 ≪梶本淑子さん(89)は、広島市三篠本町(現西区)の軍需工場で被爆した。爆心地から2・3キロ。14歳だった梶本さんを3日間捜し続けた父親は1年半後に他界。母も入退院を繰り返した。≫

 あの日、倒壊した工場からはい出す時、骨が見えるぐらい足の肉がえぐれた。全身やけどを負った男子中学生は、ちぎれた自分の腕を抱え、目の前で死んだ。戦中戦後を生きた私たちを通して、原爆の残酷さと命の大切さを知ってほしいと願い、小中学生たちに語っている。

 ≪今なお被爆体験を家族にさえ明かさない人は多い。記者の祖母も三篠本町で被爆し、16歳の妹を失ったが81歳で他界するまで一切語らなかった。遺品の手記から初めて知った。梶本さんはなぜ、語る一歩を踏み出せたのだろうか。≫

 父を奪った原爆や米国を恨み、忘れたくてずっと逃げ回っとった。20年前、中学生だった孫から「おばあちゃん、やってみたら」と背中を押され、市の証言者になった。

 最初は緊張で足がふるえ、声を出すのもやっと。でも、泣きながらメモを取る女の子や前のめりで聞く男の子を見て「続けよう」と決めた。米国の男子高校生が「ごめんなさい」と頭を下げた時は「何の責任もない若者を謝らせてはいけん」と恨みが消えた。

 ≪欧米で証言を重ね、海外から来日する要人に話す機会も多い。昨年11月にはローマ教皇フランシスコの前で言葉を紡ぐ姿が世界で報じられた。≫

 与えられた時間は2分。原稿を何度も書き直し、本番の2日ほど前に「亡くなった人の魂」という言葉が浮かんだ。何が起きたかわからんまま、苦しみながら死んだ人がたくさんいる。寒くて立っとるのもしんどかったけど、死んだ人たちの無念の思いを伝えたい一心だった。教皇は手元の翻訳と交互にこっちを見ていたからきっと通じたんだと思う。

 ≪核兵器禁止条約が来年1月22日に発効する。被爆地の期待が膨らむ一方、これからが正念場だ。≫

 貧しい国や小さな国も批准したと聞き、本当にうれしかった。でも、核を保有する9カ国も、日本も入っていない。これらを巻き込まにゃいけん。核保有国の上の人は「抑止力のため」と言うけれど、核を持てば事故で爆発するかもしれん。自分の親や子どもが死んでも仕方ないのか、と問いたい。

 ≪現在、市が委嘱する証言者は38人。平均年齢は85・68歳で今年に入り3人が亡くなった。新型コロナの影響で修学旅行のキャンセルも相次いでおり、活動は試練が続く。≫

 今月初旬、滋賀県の3つの小学校で話した。ふだんなら修学旅行で広島に来る学校。コロナは怖いが、来年も私が生きているかは分からん。「今しかない。大切な時間を使って語ろう」と重い荷物を抱え、新幹線と電車を乗り継いだ。

 証言を続けても本当に核兵器はなくなるのか、という不安はある。だけどほっといたらもっとだめでしょ。本当に怖いのに、みんな現実を知らない。忘れられた歴史は繰り返す。広島と長崎の高校生や大学生が手を携え、私たちの意思を継いでほしい。

(2020年12月21日朝刊掲載)

建物・遺構 保存に苦心

「手帳」の対象外 なぜ…

「宣言」それぞれの歩み

語り継ぐ 志を共に

実物資料保存・展示 現状は

年別アーカイブ