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連載・特集

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <下> 被爆記者

戦後も編集の道歩む

「最期まで自主独立」

 原爆により壊滅した広島で口伝(くでん)隊員を務めた八島ナツヱさん=当時(27)=は、急性放射線障害から回復すると再び出社する。「歩けるようになったのは十月中旬頃(ごろ)であった」と、被爆33年後の手記に書き残している。

 本社が全焼した中国新聞は、広島市郊外の温品村(現東区温品)に疎開させていた輪転機で9月3日付から自力印刷を再開した。しかし、17日に襲来した枕崎台風で浸水し、発行停止に追い込まれてしまう。

 がれきに覆われた街に戻り、本社で自力発行を始めたのは11月5日付。原爆被災者が求めていた情報で埋まる2面トップは「郷土の復興いつの日」の見出しを付け、「寒さに対する家であり、衣であり、飢に対する食物の補給」を訴えた。

 八島記者は身をていしての「口伝報道」ぶりが認められたのだろう。本社復帰翌月の「辞令原簿」には「任準社員」とある。それまでの「雇員」から昇格した。1946年3月の本社員名簿では、紙面編集を担う整理部6人のうち唯一の女性記者として載るが、以降の履歴は全く残っていない。

 「引き留められたが、ためらうことはなかったそうです。最期まで自主独立の人でしたから」。長男で画家の山田大乗さん(66)を東京都内に訪ねると、亡き母の素顔をそう表した。

60歳で手帳申請

 被爆記者は、戦後の民主化から新規発行が相次ぎ、隆盛を迎える新聞業界を自らの才覚で渡り歩く。

 郷里の中国新聞を退社した翌46年10月に創刊間もない夕刊の「京都日日新聞」に入社する。49年に合併した京都新聞社でも整理部員だったが、翌年に依願退職。今度は52年設立の大阪読売新聞社に転じた。53年に入社してやはり整理部に所属し、結婚と長男出産の翌55年に退職していた。

 大乗さんが小学高学年のころからは、神戸新聞の関連会社が発行する書籍の編集や取材を手掛けた。親子4人、暮らし向きは夫の分まで妻が担い続けた。

 被爆者健康手帳を兵庫県に交付申請したのは78年。60歳になっていた。職業覧には「フリーエディター」と記し、「現在まで申請しなかった理由」を提出した手記でこう述べている。

 広島の姉が「この夏再発して一カ月寝ついてしまい」といい、「消し難い何かがあるのかと恐ろしい気持ちになり、申請いたしました」。姉の光江さんは84年に69歳で死去する。

 母が交付申請をしたころ大乗さんは北海道教育大の学生だった。「原爆のことは聞けば話したが進んではしなかった」と振り返る。息子たちの独り立ちを見届け、母は八島姓に戻った。

 未曽有の事態に陥った中で口伝隊員になったことを今回知り、大乗さんは「やれることはやろうという、いかにも母らしい行動だと思います」と受け止める。

沖縄に移り死去

 晩年は沖縄で12年間暮らした。移住は、美術教師でもある大乗さんが2年半過ごした中米コスタリカから戻り創作の拠点を石垣島に置いたことから。好奇心は強く足腰も達者、80歳を過ぎても一人旅を楽しんだ。

 八島ナツヱさんは2006年1月17日、悪性リンパ腫のため沖縄市内の病院で死去した。87歳。生前の意思により粉骨にして石垣島・川平湾にまかれた。(西本雅実)

(2021年4月7日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白] 壊滅直後に「声の新聞」 「口伝隊」の元本紙記者八島ナツヱさん 被爆33年後に手記

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <上> 戦時下の女性記者

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <中> 報道戦士

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