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[ヒロシマの空白] 医師が記した8・6 千田町の松林さん 娘に手紙

やけど治療 「新兵器」推察

 広島市千田町(現中区)の開業医だった松林保太郎さん(1890~1961年)が、45年8月6日の米軍による原爆投下の翌日、自らの被爆状況などを福山市の娘に書き送った手紙が残されていた。直後の救護活動で見た被爆者の様子を医師の目で分析。早い段階で「新兵器」の可能性に言及している。

 手紙は、伝票の裏を便箋代わりに鉛筆で走り書きした計8枚。避難していた丹那(現南区)の知人宅で書き、福山市に嫁いでいた次女で医師の門田禎子さん(46年に病死)に宛てている。7日に6枚、8日に2枚を書いて人に託し、9日に尾道市付近で発送されたとみられる。

 7日の手紙には、爆心地から約1・7キロの自宅兼医院での被爆状況を詳しく記す。「空が大変パットあかるいもあかるい 目がまばゆい位あかるくなると同時に熱く感じました」。保太郎さんは倒壊した自宅の下敷きになり左腕を負傷。一帯は後に全焼したが、その前にはい出し、御幸橋西詰め(現中区)で最初期の救護活動に当たった。

 保太郎さんは「此(こ)の度(たび)の爆撃は新兵器の様に思は(わ)れます」と記す。被爆者のけがについて「非常に高度の光が出た時」の爆風による外傷に加え、「外に居た人は何のためかの火傷」「第二度の火傷で重症は全身に及び」と分析。広範なやけどの発生に注目していた。

 大本営が「新型爆弾」と発表したのは7日午後。情報が届いていた可能性は低く、現場の医師としての観察から導いた見立てとみられる。手紙には「警報解除後何の音もなしに起(おこ)った」「外に出ない事」など、突然の攻撃への備えを禎子さんに助言している。

 千田町の医院は全焼。保太郎さんが後年に記した手記によると、7日以降は県の要請で奥海田村(現海田町)で救護に当たり、その後約2年にわたり青崎(現南区)や矢賀(現東区)などで被爆者を治療した。48年に再建した医院は現在、次男の妻で医師の登喜子さん(89)が受け継ぐ。

 千田町の実家に戻ってきた禎子さんの遺品から手紙などを見つけた登喜子さんは「義父が被爆直後から救護をしたのは知っていたが、詳しく聞く機会はなかった。家族の歴史として大切にしたい」と話した。(明知隼二)

(2021年6月21日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白] 被爆直後 御幸橋で救護 あの日翌日 手紙残した医師・松林保太郎さん 松重さん写真 家族が姿確認

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