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ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <1> 元サッカー少年

召集直前まで一人練習

おい「部隊跡 活用を」

 「驚きました。叔父が被爆するまで寝起きしていた部隊の遺構が、こんなにも残っていたとは」。広島市南区の武鑓(たけやり)正勝さん(76)は6月下旬、中央公園広場(中区)を訪れると、発掘調査の現場をフェンス越しに見やった。サッカースタジアムの建設予定地で、旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」の兵舎跡などが見つかった場所だ。

 76年前、輜重隊に配属されていた叔父岡田俊治さんは被爆死した。1945年1月生まれの武鑓さんに岡田さんの記憶はない。だが、子どもの頃から気になる存在だったという。父静夫さん(2001年に83歳で死去)が義弟に当たる岡田さんと仲が良く、何かにつけ「いい青年だった」としのんでいたからだ。

 「叔父が短い生涯をどう生きたのか。家族が知らない足跡もたどり、本にして後世に残したかったんです」。武鑓さんは30代後半から、会社勤めの合間に岡田さんの級友たちの聞き取りを始め、10年余りをかけて「反魂の賦 叔父岡田俊治の生涯」を95年に出版した。そしてことし6月15日、輜重隊の遺構が見つかったとの本紙記事を読み、「何かの役に立てば」と記者に本を寄せてくれた。

脚本の道夢半ば

 岡田さんは23年、玉野市で石炭や酒類の卸売業を営む一家の長男として生まれた。旧制の岡山県第二岡山中学校(岡山二中、現岡山市中区の岡山操山高)に進み、蹴球部に入部。ボールに見立てて石を蹴りながら通学するのが習慣で、休みの日には近くの造船所のチームに鍛えてもらった。在学中、県内のサッカー大会を何度も制している。

 映画や文学にも入れ込んだ。5歳上の静夫さんとはこの点で気心が合い、連れだって映画を見に行った。好きな監督は小津安二郎。岡山二中を42年に卒業後、1年の浪人を経て東京の大学に進むと、映画の脚本家になるのを夢見ていた。

 だが、43年12月ごろ召集令状が届く。翌1月に実家をたつ前、二中のグラウンドで一人黙々とドリブルやシュートを繰り返していたという。「サッカーと別れる『心のけじめ』だったのではないでしょうか」と武鑓さん。戦車学校での訓練などを経て輜重隊に配属された。

遺骨3年そばに

 45年8月6日。岡田さんは兵営で顔や手にやけどを負い、陸軍病院の分院が置かれた戸坂国民学校(現東区の戸坂小)に収容された。連絡を受けた母の堺さんが14日の朝に駆け付けたが、同日未明に息を引き取っていた。悲しみにくれる父三代治さんは遺骨を3年間埋葬せず、自分のそばに置いて過ごしたという。

 遺品の中には、岡田さんが武鑓さんの誕生を心待ちにして家族に送った手紙もある。「元気な赤ちゃんが今一人加は(わ)ると思へ(え)ば我事の様に楽しみです」。平和な時代ならば、家族思いでスポーツも芸術も好きだった叔父がどれほど生き生きと暮らせただろう―。武鑓さんは、戦争、原爆さえなければと強く思う。

 武鑓さんにとって、見つかった遺構はここにサッカー少年だった叔父の命が確かに存在した証しだ。一部でも残してほしいと切に願う。「戦争、被爆の遺構とスポーツの双方から平和の尊さを感じられるスタジアムになれば、叔父も喜ぶはず」。そう力を込めた。(水川恭輔)

    ◇

 被爆76年のことし、広島市中心部で発掘例としては過去最大規模の被爆遺構が見つかった。広島がかつて軍都だった事実を伝える。米軍が投下した原爆は多くの命、暮らし、街並みを奪った。戦争の悲惨さ、核兵器の非人道性が刻まれた「証し」の数々を集める。

(2021年7月13日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <2> 部隊の内実

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <3> 元隊員

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