×

連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <2> 部隊の内実

本土決戦備え兵員補充

配属直後の被爆で犠牲

 現在の中央公園広場(広島市中区)などの一帯にあった旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊(輜重隊)」。隊員の岡田俊治さんがここから家族に送った手紙には「検閲済 渡辺」の印がある。戦時中、軍の詳しい動きは軍事機密。岡田さんは「当隊の模様は詳らかにお話は出来ません」(1945年6月26日付)と記している。

 この渡辺さんに当時のことを聞きたい―。岡田さんの本を書こうと取材中だったおいの武鑓(たけやり)正勝さん(76)=南区=は92年、元隊員から「名前は正治」との情報を得て電話帳を繰り、長門市に住む渡辺正治さんを探し当てた。岡田さんが配属されていた自動車中隊の隊長で、戦後は山口県内で高校教員を勤めた。

 武鑓さんは、2004年に91歳で死去した渡辺さんから生前にもらった手記を大切にしている。B5判の紙で63ページに及び、原爆資料館(中区)や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(同)にもない秘録だ。

「期もいよいよ」

 手記を読むと、兵士や馬を訓練して戦地に送る本来の役割よりも、空襲が激しさを増す中で防衛に追われた被爆直前の日々が浮かび上がる。「軍需品の疎開、自動車、兵器、兵隊の防空壕の構築、防火帯を造る民家の取り壊しなどで毎日重労働」(手記)。先立つ45年5月、岩国陸軍燃料廠(しょう)が爆撃された際は、自動車二十数台で救援に向かった。

 「敵の本土上陸の期もいよいよ」(同)との切迫感が広島の陸軍部隊にも広がり、上陸に備える動きが出ていたとも記す。渡辺さんは生前、被爆時の岡田さんについて「近々(島根県の)出雲へ行くことになっていた」と武鑓さんに明かした。日本海側からの上陸も想定されたためという。

 日本軍は本土決戦に備えて兵員補充を続け、45年夏も輜重隊に新たな兵士が続々と入営していた。戦後まとめられた「広島輜重兵隊史」は戦時中の兵員を「常時約千人」だったと記すが、45年8月初頭は約1700人に増えていたとする元隊員の手記もある。

 岡山師範学校(現岡山大)教授で哲学などを教えていた小山了(さとる)さんが召集で輜重隊に入ったのも45年6月25日。37歳で、12歳から生後2カ月の3男1女がいた。学校の送別会で「日本人としては喜んで行く。でも生物としては行きたくない」とあいさつしたという。次男清さん(2019年に80歳で死去)が記した小山さんの伝記は、同僚の証言から父の複雑な胸中を伝える。

 岡山駅で父を見送った清さんは「40歳に近い教師を召集するようでは、敗戦も近いのではないか、と子ども心に思った」。1カ月余り後、小山さんは兵営周辺で被爆し、今なお遺骨が見つかっていない。同じように直前に配属されていた犠牲者は少なくない。

女性軍属の姿も

 多くの兵士が暮らす軍施設には、炊事などにあたる女性もいた。夫が海外の戦地にいた皆崎ヨシコさんは輜重隊で軍属として働き、男児3人を育てていた。

 「被服関係の仕事だったように思いますが、はっきりしません」と三男剛彦さん(84)=安佐南区。石柱の門の前で母の仕事が終わるのを待ち、一緒に映画に行ったのをよく覚えている。

 皆崎さんはあの日も新庄町(現西区)の自宅から出勤し、兵舎の下敷きに。夕方に帰宅したが、ガラスが突き刺さった顔は血まみれで、肋骨(ろっこつ)の折れた胸を痛がった。9月4日、36歳で亡くなった。

 輜重隊の原爆犠牲者について「広島輜重兵隊史」は「被爆死者188人 行方不明234人」、その別枠で「軍属行方不明1人」と記している。皆崎さんは「軍属死者」になるはずだが、同著にその分類はない。輜重隊の被害の全容は、今も分からないままだ。(水川恭輔)

(2021年7月14日朝刊掲載)

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <1> 元サッカー少年

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 輜重隊遺構 <3> 元隊員

年別アーカイブ