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社説・コラム

『想』 平岡敬(ひらおか・たかし) 生者の責務 後編

(前編から続く)

 碑文選定の時期はまだ占領中であり、あからさまに米国を指弾したり、責任を問うたりすることを避けたのかもしれない。以来、広島は被爆者の恨みや憎しみに触れないようにして、平和を語ってきた。怨念や投下責任を言い立てるのは、日米の友好を損なうとか、平和を願う心にそぐわないといった言説が幅を利かせ、殺された人々の無念の思い、魂の叫びに耳をふさいできた。

 時の経過は悲しみを和らげ、敵意や怨恨(えんこん)の感情を希釈する。しかし、生き残った者は死者に代わって「なぜ投下したのか」「誰が命令したのか」を問わなければならなかった。それを怠ったのは、一夜にして平和主義者となった生者のエゴイズムではなかったか。2007年に開かれた「原爆投下を裁く国際法廷・広島」では、原爆投下責任が明確にされたが、その意義を多くの広島市民が共有しているとは言い難い。

 一方、米国政府は依然として「広島、長崎への原爆攻撃は正しかった」と言い、最近の米国の世論調査でも56%がそれを支持している。

 広島は報復の権利を持っているが、原爆の非人道性を体験したからこそ、報復の感情を抑えて、核兵器の廃絶を求めている。それでもなお米国の投下責任にこだわるのは、あの攻撃が正しかったとすれば、同じ論理で再び核兵器が使われる可能性があるからである。

 「和解」には原則がある。第一に加害者が誤りを認め、謝罪すること、第二に加害者が補償を行うこと、第三に再発防止の措置をとることである。原爆に関して言えば、外交行為としての謝罪は難しいとしても、米国が「原爆攻撃は間違いだった」と認めることが、核兵器禁止への第一歩であり、和解の扉を開くことになる。そのとき初めて碑文が輝き、広島が米国を赦(ゆる)す日が来る。

 原爆投下について、広島と米国との認識の差はまだまだ大きい。核兵器廃絶への道は気の遠くなるような旅であるが、70年前の焼け野原の記憶を胸に刻み、投下責任を問い続けることは、死者に対する生者の責務である。(元広島市長)

(2015年8月6日中国新聞セレクト掲載)

『想』 平岡敬(ひらおか・たかし) 生者の責務 前編

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