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二葉あき子さん ゆかりの1台 矢川さんの被爆ピアノ資料館に寄贈へ

進学上京前 練習に使用 所有の同級生遺族から

 広島市東区出身の歌手で被爆者の二葉あき子さん(本名加藤芳江、2011年に96歳で死去)ゆかりのピアノが、近く「被爆ピアノ資料館」(安佐南区)に展示される。所有者の遺族が「原爆を乗り越えた歴史を子どもたちにつないでほしい」と寄贈を決めた。(桑島美帆)

 県立広島高等女学校(県女、現皆実高)で二葉さんと同級生だった中邑(なかむら)泰子さん(10年に95歳で死去)が大切にしていた米国製のアップライトピアノだ。爆心地から約1・8キロの西観音町(西区)にあった自宅で被爆した。

 米カリフォルニア州へ移民した叔父から、1927年ごろ、県女の入学祝いとして贈られたという。当時ピアノがある家庭は珍しく、東京音楽学校(現東京芸術大)を目指していた二葉さんがたびたび訪れ、練習に励んだ。中邑さんの長女の中西祥子さん(80)=安佐北区=は「二葉あき子は私のピアノで芸大に入ったのよ、と母はよく言っていた」と振り返る。

 45年8月6日、中邑さんは市外にいて無事だったが、祖母や妹と留守番をしていた中西さんは庭で被爆し、住み込みのお手伝いさんは数カ月後に亡くなった。外科医の夫勇さんは39歳だった44年2月、南方で戦死していた。

 爆風で家は傾いたものの、一家は戦後も修復して住み続けた。道路拡張で立ち退きになった62年、近くに賃貸アパート「平和荘」を建設し、生計を立てた。中邑さんは3人の子を育てながら、うれしいことや悲しいことがあると、ピアノを弾いていたという。

 志望校に進学し、36年に歌手デビューした二葉さんも、たまたま帰省していたあの日、芸備線の列車内で被爆した。その後「夜のプラットホーム」や「フランチェスカの鐘」などがヒットし、NHKの紅白歌合戦に51年の第1回から10回連続で出場。2人は戦後も親交を続けた。

 中邑さんが他界した後、ピアノを演奏する人はおらず、調律もしていなかった。平和荘を引き継ぐ中西さんは最近、知人を通じて調律師の矢川光則さん(69)=安佐南区=に寄贈を打診。矢川さんは「新たに被爆ピアノは出てこないと思っていた。ぜひ展示したい」と快諾した。

 「父を奪った戦争は絶対あってはいけない。母の思いが受け継がれることに感謝している」と中西さん。被爆した7冊の楽譜も矢川さんに託す。

(2021年11月14日朝刊掲載)

二葉あき子さんゆかりの一台 被爆ピアノ資料館に展示 平和学習に活用へ

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