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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <2> 外圧と公論

艦隊侵入 前例なき藩士会議

 今は囲いの中で天守を大規模改修中の福山城。歴代福山藩主の中で初代水野勝成と並び13代阿部正弘は別格である。嘉永6(1853)年のペリー来航時に老中首座として開国へかじを切る。人材が国力の源として地元に藩校誠之館を創設した。

 明治維新はどこから始まったか、との問いがある。ペリーに力ずくで受け取らされた米大統領国書を外様を含む全大名や幕府役人に公開して意見を求めた阿部の対応から、と答えるのが適切だろう。

 18世紀末、ロシアの南下政策に対し海防の備えを説く論者を幕府は抑圧した。老中首座の松平定信は「処士横議(在野の者が国事を自由に論じること)の禁」を発する。

 それから半世紀余り。米国書の公開は国事の幕府独裁を放棄する大転換だった。五箇条御誓文にある公論(公共の議論)の奨励である。譜代大名と世襲官僚による硬直的な幕府政治では新次元の国難を乗り切れないと阿部は考えたようだ。

 国の未来を見据えた決断は結果的に幕府の命脈を縮めた。阿部亡き後、処士横議の大爆発により政局は一気に流動化する。

 とりわけ幕府調印の通商条約を朝廷が認めない「ねじれ」が文久2(62)年以降、尊王攘夷(じょうい)派の台頭を招いた。外様長州藩の京都藩邸で桂小五郎時代の木戸孝允(たかよし)が朝廷や他藩への工作に奔走した時期である。

 慶応元(65)年10月、英仏蘭米の艦隊が大阪湾に侵入した。朝廷に条約勅許を求めて戦も辞さない示威行動にどう応じるか。孝明天皇が御簾(みす)越しに聴く公家・武家代表の徹夜評議でも結論は出なかった。

 前例のない諸藩士会議が急きょ開かれた。広島、岡山、鳥取藩を含む在京15藩の三十数人を御所に呼んで意見を聞いた。「勅許やむなし」が多数で天皇も従った。外圧で進退窮まり公論に委ねる構図である。

 欧米の議会制を参考に幕政再生を目指す公議政体論の実践例となった。土佐藩などが構想した上、下議事院の下院の機能とも言えよう。

 外圧が招いた公論重視という新しい意思決定の流れ。驚くほど開明的な「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」の五箇条御誓文まであと少しである。(山城滋)

阿部正弘
 1819~57年。43年に老中、45年に老中首座になり、54年に日米和親条約を締結。鎖国時代に定められた大船建造の禁を解き、海軍伝習所や蕃書調所開設など開国への地ならしをした。福山へのお国入りは一度だけ。

(2021年11月24日朝刊掲載)

近代発 見果てぬ民主Ⅰ <1> 御誓文と木戸

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