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連載・特集

異国で被爆 悼み続け 遺骨発掘した山口の「ゆだ苑」 元職員岡さん

40年前 朝鮮人2人は雑草の下に眠っていた

 広島市で被爆した朝鮮人2人の遺骨が宇部市の共同墓地で発掘されてから21日で40年を迎える。携わった山口県原爆被爆者支援センターゆだ苑(山口市元町)の元職員岡千津子さん(72)=山口市小郡高砂町=は、当時の状況と思いを手記に残した。「祖国から遠く離れた地で無残に亡くなったと思うと今でも胸が張り裂けそう」と2人を悼む。

 ゆだ苑での42年余りの活動をA4判14ページにまとめた手記の中に、記述はある。

 1981年12月21日、小雪が舞う中、宇部市吉見持世寺の小高い山にある共同墓地で発掘は進んだ。ゆだ苑と山口県被団協、広島県朝鮮人被爆者協議会、在日本大韓民国民団(民団)山口県地方本部、山口大ユネスコクラブが作業した。

 きっかけは、発掘現場近くの農業原野麻一さん=当時(92)=の証言だった。45年8月、同市に湯治に来た朝鮮人2人が亡くなり、町内会長として埋葬を指示したという。終戦直後の混乱で近隣住民はほとんど知らず、墓標代わりの小石は雑草に覆われていた。緊張した面持ちで立ち会った原野さんは、遺骨が見つかると「『これでわしの戦争は終わった』と安堵(あんど)の表情になった」と岡さんはつづる。

 発掘した夜、岡さんは骨つぼと一緒に職員宿舎で過ごした。一睡もできなかった。「植民地にされ、歴史や文化を否定された上に命も落とした。申し訳ないという言葉では言い表せない感情を覚えた」と振り返る。2人の身元が分かる物は出ず、今も名前さえ分からない。翌年9月6日の「山口のヒロシマデー」に山口市江良の原爆死没者之碑に正式に遺骨を納めた。

 岡さんは職員として碑を案内する時は必ず2人の遺骨について話した。「日本の戦争加害を歴史として伝えなければいけない」。発掘から40年の節目を前に、改めて当時を語り続け、2人の生きた証しを残すと決めた。(山下美波)

(2021年12月19日朝刊掲載)

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