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連載・特集

被爆者の足取りをたどりたい。東京の学生2人が広島へ【前編】歩いて感じたあの日

 2021年10月に96歳で亡くなった前広島県被団協理事長、坪井直さんの被爆当時の足取りをたどってみたい。そう思った東京の20代2人が11月、広島を訪れました。2人は何を感じたのでしょう。そもそも2人が広島に来たいと思ったワケとは? 記者も一緒に歩き、話を聞きました。(湯浅梨奈)

2人が広島を訪れた理由

 広島にやってきたのは、核兵器廃絶を目指す活動に取り組む若者グループ「KNOW NUKES TOKYO(ノーニュークストーキョー、KNT)」の共同代表の慶応大3年高橋悠太さん(21)と、メンバーの上智大2年徳田悠希さん(20)です。

 2人と合流したのは、77年前に原爆が落とされた真下に当たる広島市中区の島内科医院。高橋さんと徳田さんは、建物の外に設置された説明板を読み、静かに空を見上げました。

 さて、2人と歩いた道をたどる前にまず、高橋さんと坪井さんとのつながりについてご紹介しましょう。

 福山市の高橋さんが坪井さんと出会ったのは、盈進中3年のとき。当時は盈進中・高ヒューマンライツ部の部員で、坪井さんの被爆証言の聞き取りをしました。2日間にわたるインビューは計5時間。高校2年で部長となり、2017年に証言集の冊子を完成させました。

 高橋さんがひかれたのは何より、坪井さんの人柄だったそうです。壁にぶつかっても諦めず、常に真っすぐ。その姿勢こそが、日本被団協代表委員、広島県被団協理事長を務め、核兵器廃絶活動に身をささげた坪井さんを支えているように思えたそうです。

 完成した冊子を手渡した坪井さんに、「頼んだよ」と声を掛けられた時のことが忘れられないといいます。「被爆体験を伝えるだけでなく、核兵器のない世界をつくるために行動してね、という思いが込められている気がして、背筋が伸びました」と高橋さん。坪井さんは「背中を押してくれる恩師のような存在」です。

 大学に進んでからも平和を考える活動を続けているのは、「恩師」を抜きに考えられないと言います。「相手に感情で訴えるのではなく、理性的に対応する坪井さんの姿勢。自分は足元にも及ばないですが、反対意見とぶつかったとき、彼ならどう考えるかな、彼なら迷わずストレートに進むんじゃないか、と想像するんです」

 今回は、坪井さんの当時の歩みをたどって自分の活動への思いを新たにしようと、広島に帰ってきたそうです。

平和記念公園で

 2人と出会った島内科医院から、近くの平和記念公園にやってきました。 原爆慰霊碑に向かう途中、水が張っている池を見ながら、徳田さんに高橋さんが説明します。「大やけどした被爆者は、水を求めながら亡くなった。だから、この公園には池が作られているんだよ」

 原爆慰霊碑の前で、2人はゆっくり手を合わせました。

 「さっき、手を合わせて何を考えていたの?」と記者が尋ねると、高橋さんは「僕にとって大切な人が亡くなった。ここに(坪井さんの)名前が刻まれるんだな…と、実感しました」。寂しさが伝わってくるようでした。

 坪井さんは1945年8月6日、当時、広島工業専門学校(現広島大工学部)の3年生で20歳でした。学校に行く途中、爆心地から約1・2㌔の広島市役所近くの路上で被爆。高橋さんたちが作成した証言集には、次のように書かれています。

 自分の体を見たらズボンは膝から下が焼けてぼろぼろじゃ。その先は、やけどで皮膚が黒々となっていて、血がパーッて出よる。「しまった」と、思ってね。腰からどす黒い血が、とにかく水のように流れていた。

 盈進中高ヒューマンライツ部「坪井直 魂の叫び」より


広島市役所の近くで

 2人は、当時の坪井さんとほぼ同じ年齢です。自分と重ね合わせながら、坪井さんが被爆した中区の広島市役所近くに向かいました。

 路面電車に揺られ「市役所前」で下車します。2人は、人通りが多い歩道で立ち止まりました。「坪井さんは左から爆風を受けたと言っていたから、こっち向きに立っていたのかな?」と高橋さん。再現を試みますが、庁舎の前なのか、後ろだったのか、詳細が分かりません。高橋さんは「実際に現地に来てみると、知っていたつもりでも知らないことがたくさん。本人が生きているうちに、もっと聞いておけば良かった」と悔やむように話しました。

御幸橋で

 次に2人が向かったのは、市役所から15分くらいの所にある御幸橋です。坪井さんは御幸橋に向かう途中で、このように証言しています。

 (市役所を後にして)親戚のところへ行ってね。私が「おばさん、元気じゃったか? よう生きとったね。助かって良かったね」って言うた。そしたら、「あなた、どなたですか。私は知りません」言うんよね。私の顔、そん時は、ぐちゃぐちゃになっとったからね。

 (中略)

 しばらく行って、死を考えた。覚悟を決めた。そのとき前の方で立ち話しよった奥さんがね、「御幸橋のたもとに仮の治療所ができたそうよ。そこに行って、治療してもらいましょう」ゆうて、しゃべりよる。それを聞いてね、「あ、もう200メートルぐらいのもんじゃ。行けるかもしれん。がんばって行こう」と思ってね。

盈進中高ヒューマンライツ部「坪井直 魂の叫び」より

 御幸橋の近くまで来ると、2人は急にゆっくりと歩き始めました。高橋さんは、「坪井さんはこのたった200メートルを、1時間以上かけて、はうように歩いたそうです」と話します。

 その200メートルも、みなさんやったらすぐ行けると思う。でも、私は1時間以上かかった。家がつぶれて影ができとるでしょ。今度は、あの影まで行こう。いざる(はう)ようにして行った。次はあそこの影までがんばろうと、やっと橋のたもとまで着いた。

盈進中高ヒューマンライツ部「坪井直 魂の叫び」より

 市役所から御幸橋までには、広島赤十字・原爆病院や広島大東千田キャンパス、広島電鉄本社などが立ち並びます。今は電車や車が通るにぎやかな街並み。でも、1945年には、建物のがれきと、炎に囲まれ、たくさんの死体が横たわっていました。坪井さんによると、右目が飛び出た女学生、飛び出た腸を押さえるようにして逃げる人たちがたくさんいたそうです。

 何とか橋のたもとにたどり着いた坪井さん。しかし、そこには治療所がなかったそうです。

 治療も何もないから、そこでは「本当に死ぬるな」と思ったんですよ。自分は半ズボンだけ。いつもポケットに入れていた在学証明書も焼けて、私を示すものは何もない。地面に座り込んで「坪井はここに死す」と書いた。

盈進中高ヒューマンライツ部「坪井直 魂の叫び」より

 高橋さんと徳田さんも、御幸橋西詰めのたもとに着きました。歩道脇には、被爆投下直後の、坪井さんが写っているとされる写真が掲げてあります。

 「この橋のたもとに来たかったんです」。高橋さんは、その場でしゃがみ込み、当時の坪井さんの動作をまねるように、「坪井ここに死す」と地面で手を動かしました。「死を覚悟するって、なかなか、ないじゃないですか。彼にとっては、死の瀬戸際だった場所なんです」

 証言集によると、やっとたどり着いたのに治療所がないことが分かった坪井さんは、本気で死を覚悟しました。すると、軍隊の軽トラックが救助活動に来ました。しかし、戦争に行ける若い男しか乗せないといいます。トラックのタイヤに足を掛けようとした小学2年くらいの女の子が、兵隊に怒られて下に落ちました。女の子はそのまま、炎の方にタッタッタっと、走って逃げました。坪井さんは、「そっちは行っちゃ行けない!」と叫んだけど、声が届きません。助けることが出来ませんでした。一方、坪井さんはその後、別の警防団がやってきて、軽トラに乗せられました。そこから似島まで運ばれ、約40日間意識を失った後に目を覚まし、生き延びたそうです。

 その時の気持ちを、坪井さんこう証言しています。

 助けてやれなかったのが、負い目になっとるんよ。私を苦しめとる。ただ「原爆こんちくしょう」いう気持ちだけじゃない。そこに生きとった人をね、みな見殺しにしたんですよ。

盈進中高ヒューマンライツ部「坪井直 魂の叫び」より

 高橋さんは、「坪井さんにとって、決して癒えることのない傷口が、ここにある気がします」と言います。「この世のものとは思えない傷や苦しみ、命を救えなかった自責の念、自分も死ぬかもという無念さなど…。坪井さんの原点に近づき苦しかったですが、やっと、供養できた気がします」

 徳田さんは、坪井さんと会ったことがありません。でも、歩いた後に「坪井さんとの距離が近くなる時間でした」と話しました。「坪井さんがあの日見ていた光景が浮かぶようでした。これから被爆者の方々と会う機会が減る中で、足取りをたどることは、被爆というものに近づく方法の一つじゃないでしょうか」

 被爆証言を聞くだけでなく、実際の場所を歩いてみる。現場の距離感をつかみながら、高橋さんと徳田さんは被爆者の思いを想像しようとしていました。

後編はこちら

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