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連載・特集

[ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真] 救護所 あふれる苦痛克明 川原四儀さん遺品 資料館に寄贈へ

 1945年8月、旧陸軍の写真班員だった故川原四儀(よつぎ)さん(72年に49歳で死去)は自らも被爆しながら、壊滅直後の広島市内にカメラを向けた。負傷者であふれる臨時の救護所、焼き尽くされた市街地…。軍の調査に伴い、混乱のさなかの市内一円を回って撮られた数々の写真は今、人間に、街に対して実際に核兵器が使われた時に何が起きたのかを私たちが知る重要な手掛かりだ。戦争の悲惨な実態と核兵器の非人道性を後世に伝えている。(編集委員・水川恭輔)

うめくばかり。「死迄の距離を幾分かでも、長引かすだけ」

 サッカースタジアム建設工事のクレーンが近くにそびえる広島市中区基町の本川の土手。散歩や通学の市民が行き交う一角に、石碑が立っている。石碑の銘板にあるのは、川原さんがこの地で撮影した1枚の写真。「堤防に設置された臨時救護所」と刻まれる。

 爆心地から北へ約1・1キロ。この辺りに広がっていた広島第二陸軍病院は原爆投下で壊滅し、臨時の救護所として土手にテントが張られた。軍人も民間人もひどい傷を負い、次々と収容された。多い時は300人を超えたという。川原さんは負傷者であふれる救護所の惨状を撮影。遺品の写真帳にも収められている。

 川原さんは若くして死去した。戦後の証言記録などが少ないが、亡くなる直前に記された被爆者健康手帳の交付申請書などから、撮影の足取りがうかがえる。

 45年8月6日朝は所属していた宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部の写真班員の部屋で机に向かっていた。爆心地からは約4・6キロ南東。申請書によると、「部屋の窓ガラスは爆風の為全部こわれたが、自分は幸にして無事だった」

 翌7日、「職員家族見舞の為」に市中心部へ向かうと、多くの負傷者が「兵隊さん、水をくれ」と叫んでいたという。後日、軍医部将校たちと軍用車で市内一円を回り、写真を撮った。陸軍病院や分院関係は9日の撮影。陸軍省が軍医たちを派遣した広島災害調査班が9日に同じ場所を視察しており、同行して撮ったとみられる。

 同調査班の9日付の速報によると、第二陸軍病院は職員・患者の8割の698人が死亡・行方不明となっていた。救護看護婦長だった故河上ハツエさんは頭にけがをしながら、土手のテントで救護に当たった。手記「被爆の想出(おもいで)」に痛ましい惨状をつづっている。

 負傷者はやけどで体中が腫れ、手足も動かせず、うめくばかり。医薬品は足りず、治療というよりも「死迄(まで)の距離を幾分かでも、長引かすだけ」(手記)だった。「真夜中に、堤防から、苦痛に堪えかねて、死を急ぐ患者の投身があったのもたびたびであった。鈍い水音を聞くたびに、また飛び込んだねと私達は無感覚につぶやいた」

 同調査班の速報は「広島市内病院医院等ハ殆(ほと)ンド全焼」とし、市内の医師約300人のうち罹災(りさい)者が8、9割に上るため、救護活動が進まない状況も伝えている。街が無差別に破壊され、川原さんの写真が示すように即死を免れた人も十分な治療を受けられずに次々と息を引き取った。

 川原さんは、紙屋町や八丁堀など市内の繁華街の被害状況も撮影した。戦後は市内で写真店を営んだ。被爆から23年が経過した68年、自らが撮った原爆写真19枚を収めた写真帳を初公開し、一枚一枚にデータを付けて利用しやすいようにしたいと意欲を示していた。だが4年後の72年、副腎がんのため49歳で亡くなった。道半ばだった。

 それから50年。長男の祐一さん(74)=南区=は遺品の写真帳を原爆資料館に託す。「とにかく親父は写真の仕事一筋でした。仕事が丁寧で、親父が写真を焼くと、『色が劣化しない』と評判だったんです」。寄贈は、今なお惨状が鮮明に写っている一枚一枚が「家に置いていて、傷んではいけない」との思いからだ。

 祐一さんは記者に、写真帳と一緒に残る資料も見せてくれた。川原さんの妻の故縫子さんが、写真の使用を希望する出版社や市民団体とやりとりした文書や使われた資料が残る。米国と旧ソ連が核軍拡を競い、核戦争の危惧が高まっていた80年前後のものが目立つ。

 軍の調査に伴う写真だったものの、撮った本人の確かな意志で戦後も残され、惨禍を「証言」してきた川原さんの写真。ロシアがウクライナに侵攻し、核使用の危機が連日語られる今、私たちに繰り返してはならない惨状をあらためて突き付ける。

軍機関や研究者 相次ぎ撮影

 日本側が被爆後の広島を撮った原爆写真は、軍や研究者の被害調査に伴って残されたものが少なくない。暮らしを破壊された市民の大半がとてもカメラを手にする状況ではなかった被爆直後の混乱時から、それぞれの目的を持って焼け跡や負傷者が撮影された。

 1945年8月6日の原爆投下後、いち早く現地調査を始めたのは広島にあった軍機関だった。「新型兵器」の特性や被害状況を明らかにし、対策を講じるのが目的だった。海軍呉鎮守府は、6日当日から調査を開始。呉市の大和ミュージアムは、調査の関連で8日に撮られた広島市内の写真を所蔵している。

 陸軍中将を団長とする大本営調査団は8日に広島入りし、10日に陸海軍の合同検討会を主催。使われた爆弾を原爆と確認した。その報告書草案(原爆資料館所蔵)には、川原四儀さんが撮った救護所などの写真が添えられている。一部、川原さんの遺品の写真帳に含まれないカットもある。

 終戦後も、被爆した人に脱毛、出血など現在では放射線障害と知られる症状が見られる中、調査は続いた。9月には文部省の学術研究会議に原子爆弾災害調査研究特別委員会が設置された。医学や物理など9分科会が設けられ、関連して写真も撮られた。

 一方、米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)は9月19日、報道機関を統制するためのプレスコードを発し、被爆調査に関する研究の発表は制限された。

 調査に伴う原爆写真は、当時調べられた被害データや報告書、標本などが併せて残るケースが多い。写真に刻まれている惨禍の記録を一層浮き彫りにするには、関連資料と結び付けた分析が重要となる。

(2022年4月24日朝刊掲載)

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