×

ニュース

[ヒロシマの空白 証しを残す] 9人の名前 願い重ね 本当にむごい。繰り返さないで

「あの日」奪われた日常

 「周三、澄江、聖子、佳紀、昭子、生子、初子、シズノ」―。原爆資料館(広島市中区)に寄贈された卒塔婆の写真には、今の原爆慰霊碑(同)の近くで暮らし、原爆の犠牲になった家族の名前が記されていた。取材を進めると、被爆前にあった命と暮らし、それを消し去られた遺族の憤り、悲しみが浮かび上がった。(編集委員・水川恭輔)

 2年前に寄贈された卒塔婆の写真には身元不明の9人の名前が書かれ、1人は判読が難しい状態。いずれも名字はなかった。記者は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(同)で下の名前が一致する家族を捜した。同館では、遺族の申請があった死没者の名前(昨年度末で約2万5千人)を一部を除いて検索できる。被爆死した家族も調べられる。

 端末で調べると「周三」は2人が該当。うち藤本周三さんは、妻子や姉たちの名前が卒塔婆と次々に重なった。住所は、平和記念公園(同)となった旧中島本町。同町の被害を追った本紙特集「遺影は語る」(1999年8月3日付)に犠牲者として載っていた。

 「確かに叔父たちの名前です。初めて見ました。よくこんな写真が…」。周三さんのおいの征利(まさとし)さん(82)=同=に写真を見てもらうと、絶句した。

 征利さんは市内の別の町内で育ち、原爆投下時は5歳で広島県北部に疎開していた。ただ、伯母の初子さんを中心に営んでいた中島本町の喫茶店アキヅキを訪れ、祖母シズノさんにあめや干し柿をもらった記憶はある。店はパンやコーヒーが評判だったという。

 叔父の周三さんはアキヅキのすぐ近くに妻と子ども3人と住み、店を手伝いながら町内の映画館の看板を描く仕事をしていた。父信太郎さん(2000年に91歳で死去)から「自慢の弟だった」と聞いた。「身長が180センチぐらいあり、ハンサムで『広島のゲーリー・クーパー(米俳優)』と呼ばれとったと。有名な俳優がスカウトに来たこともあったそうですよ」

 しかし45年8月6日、米軍の原爆投下で同町一帯は壊滅。周三さんと妻子の5人、初子さん、シズノさん、征利さんの叔母寿美枝さんが犠牲になった。召集を受けて山口県内の部隊に配属されていた信太郎さんは広島に戻り、跡形もなくなった店の跡で遺骨を拾った。誰の遺骨かは分からなかったと征利さんは父から聞いた。卒塔婆の話は聞いたことはなかったという。

 家族を奪われた信太郎さんの憤りは何年たっても収まらなかった。「『ピカドンは思い出すだけで腹が立つ。一生恨むんじゃ』。おやじはお酒を飲むと、いつもこんな恨み言を言っていました」。8月6日は必ず午前4時には起き、アキヅキ跡付近に建立された原爆慰霊碑を訪れていた。

 征利さんへの取材で、写真で読めなかった名前は寿美枝さんだと確認できた。ただ、征利さんにも聞いたことがなく、家族の戸籍謄本をあらためて見ても載っていない人が1人いた。

 生子さん―。周三さん一家の並びの最後に書かれている。妻澄江さんは第4子の出産を控えていた。おなかにいた子に付けられた名前とも考えられるが、確証はない。

 征利さんのいとこになる周三さんの子ども3人も6~2歳と幼かった。「長女の聖子さんは私と同学年で、すごくかわいがられとったそうです。なのに私は記憶もなくて…。やりきれない」。卒塔婆の名前を見る目に涙がたまっていた。

 写真は現在、資料館の新着資料展に並んでいる。征利さんは、役に立つならば家族の遺影やアキヅキの写真を同館に提供したいと話す。慰霊碑が立つ地で家族が「あの日」まで生きていた証し。「本当にむごいことじゃった。それが薄れ、繰り返されることがないように」。そう強く願う。

(2022年6月20日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 証しを残す] 被爆翌年 焦土の卒塔婆 喫茶店を経営 被爆死家族9人の名前記す

年別アーカイブ