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連載・特集

[ヒロシマの空白 証しを残す 写された被爆者] 教室の救護所 苦悩たどる

1945年10月 菊池俊吉さん撮影

大田萩枝さん「医者は私一人。死亡診断書ばかり書いた」

 被爆直後の広島を撮った写真の一部は、写っている人が誰なのかが記録や本人の申し出で分かっている。写真と、写された人の手記や証言を結び付ければ、核兵器使用の惨禍により迫ることができる。その試みにつながる写真を数多く残したのが、東京の写真家の菊池俊吉さん(1990年に74歳で死去)だ。45年10月に計860枚もの写真を撮った。救護所で撮られた代表的なカットと、そこに写る医師の大田萩枝さん(2018年に96歳で死去)の資料から被害の実態を掘り下げる。(編集委員・水川恭輔)

 原爆投下から2カ月となる1945年10月上旬。菊池さんは、鉄筋校舎が焼け残った袋町国民学校(現広島市中区の袋町小)へ撮影に入った。爆心地から約460メートル。8月6日に児童・教職員計約160人が登校していたとされ、その大半が犠牲になった。

 爆風で吹き飛ばされた窓には、むしろがつり下がる。入り口には十字旗と「袋町救護病院」の看板。菊池さんは中に入り、シャッターを切った。入院患者のためにハエよけの蚊帳をつるした教室で、23歳で被爆した大田さんが治療をしていた。

自らも嘔吐頭痛

 「教室がずらっと病室になっとるんです。医者は私一人でした。白衣もないんで医者には見られはしませんがね」。大田さんは市医師会の聞き取りに当時の人員や物資の不足を語っている(89年刊の「ヒロシマ医師のカルテ」収録)。被爆後、嘔吐(おうと)や頭痛に襲われながらも診療を続けていた。

 大田さんは牛田町(現東区)の医師家庭に生まれ、42年に東京の帝国女子医専を卒業。広島県立病院の眼科に勤めていた。8月6日は爆心地から約2・2キロの同町の自宅で出勤前に被爆。救護かばんを手に逃げ、近所で顔や体をやけどした人の手当てをした。あまりの負傷者の数に医薬品はすぐに尽きた。

 爆心地から約900メートルの水主町(かこまち)(現中区)にあった同病院は全壊全焼。大田さんは病院関係者の指示で10日から古田町(現西区)、15日から日本勧業銀行広島支店(現中区)での救護治療を受け持ち、9月途中に袋町国民学校へ移った。

 できたことは、消毒薬の赤チンとチンク油を傷に塗ることぐらいだったという。「死亡診断書ばっかり書きました。今日は何人死んだ、何人死んだと」(ヒロシマ医師のカルテ)。手の施しようのないほどのやけどに加え、8月下旬から脱毛や紫斑が目立ってきた。外傷が少なくても亡くなる人が相次いだ。現在は放射線障害として知られる。

 市民の憤りも目の当たりにした。9月初め、外国人記者が救護所に入ると、1人の女性が米兵と思って叫んだ。「この子を米国に連れて帰り見世物にしてください!」。女性の子どもは10歳ほどの男児で全身やけど。後ろ頭が裂けて骨がむき出しになり、横にもなれず、うずくまっていた。

手記に怒り記す

 女性の悲痛な叫びに、大田さんも怒りがこみ上げた。「こんな残虐な武器を同じ人間に使用してよいものか、絶対許せん!」(「傷痕Ⅱ」収録の手記)

 大田さんは46年春ごろまで同校で診療。48年に牛田町で眼科の医院を開業した。89年に市内で開かれた核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の世界大会で「二度とあの悲劇を繰り返すことなきように」と訴えた。

 晩年は、めいの藤嶋久子さん(80)が住む千葉市で生活。2018年に肺がんで96歳で死去した。「核兵器は絶対に使ってはならないと若い人に学んでほしい」。大田さんが手元に残していた資料を広島大文書館に託した。

 菊池さんの長女田子はるみさん(65)=東京都練馬区=の元にも、大田さんの手紙が残る。写真をきっかけに、菊池さん、妻徳子さん(18年に93歳で死去)と手紙で交流していたからだ。

 大田さんは医院を営んでいた当時、8月6日前後に菊池さんが撮った救護所の写真を飾り、訪れた子どもに体験を話すこともあった。徳子さんに宛てた手紙は、写真への思いにあふれている。「私がこの世から去りましても日本国のあるかぎりあの画像はあり続けるのです」(96年6月)

 被爆後に救護所となった袋町国民学校の被爆校舎は一部保存され、平和資料館になっている。館内には大田さんが写る菊池さんの写真が並ぶ。大田さんの体験と願いを伝え続けている。

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「原爆調査特別委」に同行

子どもにカメラ 申し訳なさも

 菊池さんは1916年、岩手県に生まれた。東京の写真学校で技術を学んだ後、陸軍が41年に組織した対外宣伝機関「東方社」の写真部に入った。第一線のカメラマンが集まり、陸海軍部隊の軍事力を宣伝するグラフ雑誌を制作していた。

 旧文部省は45年9月、各分野の専門家からなる「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置。東方社は、委員会の調査の記録映画を作る日本映画社から写真撮影の依頼を受けた。同年10月、菊池さんは同委員会の医学班の映画撮影に同行し、広島で写真を撮った。

 「聞いたこともない放射能とか原爆症という言葉が出たりで、とまどいの多い撮影」(「原爆を撮った男たち」収録の菊池さんの手記)。放射線の影響で脱毛した子どもや痛ましい傷が残る負傷者にもカメラを向けた。申し訳なさを感じることもあったという。

 街の被害状況に加え、ビール立ち飲み所や地区の祭りなど復興の兆しを感じさせるカットも少なくない。物資不足の広島の市民が写真を撮るのは困難な中、資料の空白を大きく埋める貴重な写真を残した。

 その後、菊池さんは独立し、理科の教科書に使う科学実験の写真の撮影などで活躍。90年に白血病で死去した。広島のネガフィルムは手元に残し、死後は妻徳子さんが保管していた。原爆資料館と中国新聞社は2007年から広島国際文化財団の助成を得て、徳子さんから提供された画像のデジタル保存に取り組んだ。

 徳子さんが4年前に亡くなった後は、長女の田子はるみさんがネガを受け継いでいる。後世に残すには劣化対策の設備がある施設での保存が必要だと感じており、原爆資料館に相談したいという。「食べるものがなく、塩をなめながら広島で撮影したと聞きました。広島のものは広島に残し、しっかりと活用してもらいたい」と力を込める。

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街や市民の惨状 本紙サイトで紹介

 中国新聞社は1月、重点企画「ヒロシマの空白」のウェブサイトに新たなコンテンツ「惨禍の記録」を設けた。米軍の原爆投下で壊滅した街の惨状や被爆した市民の姿を記録した写真を100枚以上紹介している。

 写真や撮影者に関する記事は順次追加。4~5月の本紙連載「ヒロシマの空白 証しを残す 被害調査写真」の記事と掲載写真、紙面で紹介しきれなかったカットも掲載している。サイトのアドレスは https://hiroshima75.web.app/

(2022年7月14日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 証しを残す] 被爆医師の原稿・手記寄贈 大田萩枝さん 原爆投下当日から救護活動 40点 広島大文書館へ

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