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[ヒロシマの空白 街並み再現] 旧猿楽町生まれ松本さん 青春の地 記憶は今も

写真で生家と「再会」

 爆心直下の「丸米履物」で買ったげたを手元に置いている松本幸子さん=広島市南区=は97歳の今も、生まれ育った旧猿楽町(現中区)や旧細工町(同)の懐かしい記憶を大切にしている。爆心直下での被爆は逃れたものの、戦後の生活は一変した。原爆に消された古里を思い、「平和であってほしい」と願う。(湯浅梨奈)

 「この辺の様子はずいぶんと変わりました」。7月下旬、松本さんは長女の岡悦子さん(73)=中区=と、18歳まで暮らした旧猿楽町の自宅跡を歩いた。紙屋町交差点からすぐで、現在はエディオン広島本店の東館が立つ。

2000枚のカットに

 1階は幸子さんの父、喜代吉(きよよし)五郎さん(1980年に84歳で死去)が経営する金融業「相互金融広島不動会」の店舗。2階が住居だった。幼い頃、向かい側に住む「しいちゃん」と近くの西練兵場で遊んだ。女学校を卒業後、「丸米履物」の近所の「高坂(こうざか)さん」宅で和裁を習った。2階が教室で、住み込みの人もいて…。昨日のことのように語る。

 家業の羽振りは良かった。集金のため従業員が自転車で店舗に出入りしていた様子をよく覚えている。「でも戦前の家の写真は一枚も持っていないのです」

 どこかにあるはず―。松本さんが「しいちゃん」と呼ぶその人は、川本静枝さん(97)=廿日市市。家は、被爆前の市中心部を大量に撮り残したことで知られる父の故松本若次さんが営む写真館だった。記者が親族に尋ねると、電車通りの向こうに「広島不動会」の看板が写るカットを約2千枚の中から探してくれた。

 「懐かしい。思い出がよみがえります」。記憶の中の生家と77年ぶりに「再会」し、目を細めた。「こんな家だったんだね」。岡さんも写真に見入った。

支えは裁縫の腕

 松本さんたちは44年ごろ二葉の里(現東区)に引っ越し、猿楽町での営業は継続した。そして陸軍将校の優(まさる)さんと結婚し、神奈川県へ。45年夏に妊娠のため帰郷した直後、広島に原爆が投下された。爆心地から約1・7キロの自宅庭で本を開いていた身重の松本さんは、顔や右手足にやけどを負った。父たちは猿楽町へ出かける前で無事だった。

 市中心部から大やけどの人たちが逃げてきた。「はうようにして進み、途中で力尽きていく。かわいそうでした」。自宅は爆風で崩れたが、庭に見知らぬけが人を何人も受け入れた。

 猿楽町と細工町を含む一帯は、街も、そこにいた人も全滅した。爆心地から約190メートルの広島不動会に残ったのは、鉄製の大きな金庫だけ。幸子さんの夫の優さんが3日後に広島へ戻り、金庫で寝泊まりして焼け跡にとどまった。だがその後、金庫の所在は分からなくなった。家業は再建しないままとなった。

 戦後の生活を支えたのが、松本さんが細工町で習った裁縫の腕だった。大須賀町(現南区)の京橋川近くで衣料品店を開き、ふんどしを縫って売った。59年にJR広島駅西側へ移って以降、昭和の薫りを残す飲食店が軒を連ねる「エキニシ」の一角で暮らす。

 今、また原爆が使われるのでは、と思わせるようなニュースが増え、気になっている。「原爆は本当に恐ろしいのです。もう、ああいう時代が二度とあってはいけません」

(2022年8月3日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 街並み再現] 爆心直下 営み伝えるげた 旧細工町で購入 松本さん保存

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