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峠三吉 最期まで情熱 晩年の直筆書簡50点 広島で発見 「多くの危機をのりこえて私たちは前進するでせう」

 原爆詩人・峠三吉(1917~53年)の直筆書簡約50点が、広島市内で見つかった。峠が代表作「原爆詩集」を発表した晩年に書いた封書やはがき類で、占領期の言論統制にあらがいながら死の直前まで詩作に心血を注いだ様子がつづってある。専門家は「峠の文学に対する姿勢や情熱が分かる非常に貴重な資料」とみている。(桑島美帆)

 書簡は51年5月14日から、峠が36歳で死去する約1週間前の53年3月2日まで、広島県内の国立療養所に滞在していた詩人仲間の女性に宛てていた。「ちちをかえせ ははをかえせ」で知られる「原爆詩集」を発表した51年9月の時期と重なる。

 書簡は便箋やはがきに癖のある字がびっしりと並ぶ。51年10月25日の封書は「多くの危機をのりこえて私たちは前進するでせう、私一人になってもするでせう」と、さまざまな圧力と闘うような熱い言葉が続く。51年12月8日のはがきでは「『原爆詩集』は好評でした、毎日のように注文が来ます」と喜び、文学仲間の合評会や演劇関係者の集まりに駆け回る様子も記す。この頃峠は、喀血(かっけつ)を繰り返し、体力的には限界にきていた。

 爆心地から約3キロ離れた翠町の自宅で被爆する前はロマンチックな詩を書いていた峠が、原爆投下という想像を絶する現実と向き合う中で、「僕は甘い男だ。この甘さがある限りいい詩はかけぬ」と自己批判する手紙も残っていた。

 書簡は、中区にある「広島文学資料保全の会」の事務室で資料群から見つかった。池田正彦事務局長(75)によると、会の代表で広島大名誉教授だった故好村冨士彦さんが90年前後に女性の遺族から譲り受け保管していたという。

 筆跡を確認した岩崎文人・広島大名誉教授(78)=近現代文学=は「私信の枠を超え、共に闘おうという峠の文学観、人生観を表した貴重な書簡。公的機関で大切に保管し、検証を重ねていくべきだ」と話している。

(2022年8月4日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆77年] 峠三吉 闘う原爆詩人の最晩年 広島で発見 直筆書簡から心情たどる 詳報

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