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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆77年] 峠三吉 闘う原爆詩人の最晩年 広島で発見 直筆書簡から心情たどる 詳報

 広島市内で見つかった原爆詩人・峠三吉(1917~53年)がのこした約50点の直筆書簡は、叙情的な言葉が並び、36歳で不慮の死を遂げるまで文学活動に突き進んだ姿が浮かんでくる。新出資料を読み解き、晩年の峠の心情と足跡をたどる。(桑島美帆)

占領期の言論統制

「ひどい弾圧!」「しかし多分へたばりはしない」

 書簡は51年5月14日~53年3月2日、詩人仲間の女性に宛てられていた。峠が死の約1週間前まで、悩みや葛藤、喜びなど、その時々の胸の内を率直に明かしており、この女性が文学活動の同志であり、精神的な支柱だったことがうかがえる。

 朝鮮戦争(50~53年)のさなか、占領期の言論統制の影響が続き、共産党員を職場から解雇するレッドパージも吹き荒れていた。結核を患っていた峠は、自らの死を意識しながらも、49年に結成した文学サークル「われらの詩(うた)の会」をはじめ、広島県内外の文学界を駆け回り、精力的に活動していた。

 「すべての開催地で文学講演会が禁止された由、全くひどい弾圧!」(51年8月10日)

 「忙しくて昨夜も十二時までものを書いたりしてくたびれました、しかし多分へたばりはしないつもり」「多くの危機をのりこえて私たちは前進するでせう、私一人になってもするでせう」(51年10月25日)

 広島大名誉教授の岩崎文人さん(78)は「共に生き、共に闘うという峠の人間的な魅力が伝わってくる。最期まで精力的に多くの人たちと文学活動をし、さまざまな文学サークルをけん引していたことが分かる」と分析する。

弱音

多喜二の小説を読み「恐怖に襲はれる」

 51年9月、峠はガリ版刷りの「原爆詩集」を500部発行する。「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まる「序」を含む20編を発表し、翌年6月には5編を加えた文庫本を青木書店から出版した。

 「全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ」―。冒頭でそううたった原爆詩集の後書きで、峠は「有形無形の圧迫」が絶えず加えられており、増大する圧力に対し「人間そのものに敵対する行動をとっている」と弾劾する。しかし、新出資料からは、弱音を吐く峠の姿も垣間見える。

 「静かな夜です。ラジオのみ鳴っている。小林多喜二の小説を読んでいると私は恐怖に襲はれる、このような事態が私の上にいつかくるだろうか、いづれくるだろう、それに自分が耐えうるだろうか」「私は決して強い人間ではない」(52年2月26日)

 「弾圧はますますひどく、それがすぐ分る私たちには暗い気持ちを与えます」(52年8月30日)

 身の危険を感じていたのか、「静かな夜―」の封書の差出人は、異なる筆跡で女性の名前が書かれていた。

自己批判

「僕は甘い男だ 甘さがある限りいい詩はかけぬ」

 峠は28歳だった45年8月6日、爆心地から約3キロの翠町(現南区)の自宅で被爆した。極限的な体験を経て、従来のロマンチックな作風から一変。現実と向き合いながら一言一句を練り直し「人の心全体に感じさせる」詩作に没頭する。書簡からは、原爆詩人として知られるようになった後も悩み続けた姿が見える。

 「東京はいま日本の青春の血汐がみちています、そのなかをひとりポコリポコリと歩いている私」(52年5月16日)

 「私のように叙情的な人間はすぐ弱ってしまいそうです。しかし耐えねばなりますまい。私の長からぬ命ちはローソク程度でも光りを発せねばならぬでせう」(52年7月16日)

 「僕の生きている時間も短い。その中でさえ妥協と習慣と堕勢に生きている自分が情けない」「僕は甘い男だ、この甘さがある限りいい詩はかけぬ」(年月不明)

 岩崎さんは「自分自身の詩の限界を認識し、それを超えていい詩を書きたいという彼の本質的な思いがよく表れている。峠が原爆詩集を出した後も、詩作を構想し、書こうとしていたことがうかがえる」とみる。


「僕は元気で手術をのりこえてゆきます…さよなら」

 52年3月、新日本文学会全国大会に出席するため、上京していた峠は、列車の中で大量に血を吐き、静岡日赤病院に収容された。その後、肺葉切除手術を受けるため、国立広島療養所(現東広島市)に入院する。53年3月2日、便箋5枚にわたって手術の不安や、詩の力、自分の限界などを論じている。

 「僕の詩を読んで勇気づけられた人がすくなくとも全国に一万人はいるであろうことも理解しています。然しそれを体で感じることはなかなか出来ませんでした」「そこから湧き出る勇気をもって手術にのぞみませう。多くの人が僕を必要としているのです、僕は仕事をしつづけねばなりません」「僕は元気で手術をのりこえてゆきます…さよなら」

 8日後、峠は手術台の上で帰らぬ人となった。

(2022年8月6日朝刊掲載)

峠三吉 最期まで情熱 晩年の直筆書簡50点 広島で発見 「多くの危機をのりこえて私たちは前進するでせう」

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