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連載・特集

つなぐ 最後の言葉 原爆の犠牲になった10代 <上> あせぬ記憶 抱きしめる

 原爆で命を奪われた10代の子どもたちが亡くなる前に語った「最期の言葉」がある。父母やきょうだいが手記などに書きとどめ、在りし日をしのんできた。その言葉を77年目の今夏、広島市南区の仁保中の2年生たちが校内の平和学習会で朗読し、受け止めた。戦時下にあった家族の暮らしと絆、それを引き裂いた原爆…。遺族のあせない記憶とともにかみしめる。(林淳一郎)

77年経て仁保中生が朗読

 仁保中の平和学習は7月12日にあった。2年生9人が体育館のステージへ。それぞれマイクに向かい、原爆の犠牲になった子どもたちの「最期の言葉」を朗読していく。同学年の約70人が静かに聞き入った。

 お母ちゃん、すまんね

 できるだけボクのそばにいて、はなれないでね

 ボク死にそうです。どうしたら治りますか、看護婦さん

 言葉は全部で30。旧制広島一中(現国泰寺高)や広島二中(現観音高)の生徒たちが残した。戦火が燃え広がらないよう家屋を壊しておく建物疎開の作業中などに被爆。自宅にたどり着いて家族にみとられながら語ったり、手当てを受けた臨時救護所にいた人が聞き及んだりした言葉だ。

 朗読の台本は、東京の俳優グループ「夏の会」が2019年まで全国で上演した朗読劇「夏の雲は忘れない」などがベースになっている。被爆2世のフリーアナウンサー内海雅子さん=佐伯区=が膨大な手記を読み込んで再構成。知人の仲介で昨年9月に続き、仁保中の平和学習に関わった。

優しい兄 短い一中生活

妹の檀上佳以子さん(87)=福山市

 ≪竹秀さんの日記を今も大切にする。つづられているのは、広島一中に入学した1945年4月から6月までの学校生活だ≫

 日記にも書いていますけど、兄は海軍の軍人になるのが夢だったんです。でも優しくて、怒ることなんてなかった。一中の校歌も教えてくれて。鯉城の夕(ゆうべ)雨白く―。私、今でも歌えますよ。

 あの頃、瀬野村(現安芸区)に住んでいました。父と母、兄と私、妹の5人家族。私は国民学校5年生でした。国鉄勤めの父は厳格だけど、母は優しくて歌が好きでね。「お歌を」ってレコードをかけて。兄の優しさは母譲りなんです。

 でも、兄も私も勉強よりも勤労奉仕ばかり。国民学校の運動場にもカボチャを植えていました。食べ物がないんです。家でもお芋とかね、白いご飯なんてまともに食べられなかった。母も自分の着物をお米に替えて。苦労していました。

  ≪45年8月6日、竹秀さんは広島一中の校舎内で被爆した。建物疎開作業の待機中だった≫

 父が兄を捜しに行ったんです。暑いから、鉄かぶとで水をくんで頭にかけながら。でも見つからない。すると夕方、兄が家に帰ってきました。校舎の下敷きになって、はい出したんだそうです。すごい裂傷でしたが、やけどはない。父は喜んで、泣いて。号泣する姿を初めて見ました。

 ところが、やがて兄の髪の毛が抜け出して。弱って起き上がれなくなった。近くに医者もいないから、母の郷里の三原の病院へ汽車で運んだんです。でも8月28日に亡くなって…。そのいきさつや兄の言葉を書いた母の手記が「星は見ている」(秋田正之編)に収められています。

 ≪戦後、父の転勤で瀬野村を離れた。佳以子さんは高校教師になり、定年まで働いた≫

 兄を失って、父と母は落ち込んでいました。一人息子でしたから。私も生きてくれていたらと何度も思いました。もっと冗談も言い合えただろうし、楽しいこともできたはずです。

 でも、世の中から戦争が絶えません。今もロシアがウクライナを攻撃しています。人間は争いをやめられないのでしょうか。力任せではなく、平和を保つ努力が大切だと思うんです。

呼び続けた家族の名前

妹の西原千草さん(83)=呉市

 ≪戦時中、福島町(現西区)に自宅があった。父は幼稚園で働き、母と兄の卓さん、千草さん、弟、妹の6人家族だった≫

 私は、お兄ちゃんがすごい好きじゃった。「チコちゃん」って、いつも呼んでくれてね。3歳下の弟は駿(すぐる)といって、妹は生まれたばかりだった。

 空襲警報が鳴ると、両親が弟と妹を抱いて、お兄ちゃんが私の手を引いて逃げる。痩せとるのに「おんぶする」と言うてくれて。気の毒でね。だから、母がお兄ちゃんを𠮟るのを見かけたときは、私が母をやっつけていました。「お兄ちゃんを大事にしんさい」ってね。それくらい私は、お兄ちゃん思いじゃったんよ。

 ≪原爆が投下される少し前、千草さんは母と妹とともに廿日市町(現廿日市市)へ疎開した。そして8月6日。卓さんは広島市内を流れる本川沿いでの建物疎開作業中に被爆。父と弟も市内で被爆した≫

 母と一緒に、お兄ちゃんを捜し歩きました。どっかに逃げとらんかと。父は大けがをして動けなかったんです。当時のことをまとめた父の手紙の内容が、「いしぶみ」(広島テレビ放送編)に載っています。

 ≪卓さんは8日夕、舟入地区(現中区)の臨時救護所で息を引き取った。9日に母が訪ね、遺骨が入った箱を持ち帰った。それは亡くなった順番という11番目の箱だった≫

 お兄ちゃんは死ぬまで家族の名前を呼んでいたそうです。「チコちゃん」って私のことも探しようたんでしょう。もう諦めんといけん、でも諦められんって何遍も思いました。しばらくは、お兄ちゃんを奪ったアメリカが憎かったです。

 戦争はいけん。原爆もいけんと思います。今は夫と2人で暮らして時々、本川沿いの慰霊碑に立ち寄るんです。花を供えて、碑の裏に刻まれたお兄ちゃんの名前を見て。「来たよ」と言うて、思い出すんよ。あの声も表情もはっきり覚えていますから。

 朗読した「最期の言葉」は台本の表記です。手記などの表現とは異なる部分があります。

(2022年8月5日朝刊掲載)

つなぐ 最期の言葉 原爆の犠牲になった10代 <下> 同世代の思い 受け止めた

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