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連載・特集

[ヒロシマの空白 証しを残す] 惨禍の街 一面がれき

当時18歳の下田さん 77年前の写真 後世へ

 広島市西区の下田博章さん(95)から本紙に寄せられた被爆直後の市内の写真7枚には、繁華街だった八丁堀(現中区)周辺や広島駅(現南区)近くの市街地が悲惨な廃虚と化した姿が記録されている。被爆から77年。被害の実態を伝える写真の重要性は増す。自身も被爆した下田さんは被爆の記憶の次世代への継承に役立ててほしいと願っている。(編集委員・水川恭輔)

 1枚は、百貨店の福屋新館(現八丁堀本店)の東南側辺りから南の今の新天地(中区)方面を撮影。被爆前に映画館や飲食店、洋服店など多くの店が立ち並んでいた一帯は焼き尽くされ、一面ががれきに覆われている。姿がはっきりと見えるのは鉄筋2階建てで焼け残った多田小児科のみ。視界を遮る建物がなくなり、約8キロ南の似島(現南区)まで見通せている。

 人の姿がほとんどない電車通り、窓が吹き飛んだキリンビヤホール(現広島パルコ本館)…。ほかにも、市民のにぎわいの場の変わり果てた姿が収められている。原爆資料館(中区)は中国新聞社の窓の状況から被爆翌月の1945年9月までに撮られたとみられるカットが含まれることを確認している。

 資料館は撮影時期のさらなる特定に向け、広島駅南側の大正橋から周辺の焼け跡を撮った写真にも注目する。大正橋は同年9月17日の枕崎台風で橋桁の一部が流失したため、流失前に橋の上から撮った可能性が高いからだ。壊れた橋の上から写した可能性も否定できないが、検証を続けている。

 一方、下田さんの元には叔父中野忠男さん(92年に79歳で死去)から写真と一緒に届いた手紙も残っていた。「原爆後の広島の写真が出来ました。記念のため送ります」。可部町(現安佐北区)出身の中野さんは戦時中は軍に召集され、戦後は大阪に移って金物の製造販売業を営んだ。ただ、写真の撮影経緯については下田さんも中野さんの家族もよく知らないという。

 下田さん自身は18歳で学生だった77年前、爆心地から約2キロの三篠国民学校(現西区の三篠小)近くの実家で被爆し、やけどを負った。建物疎開作業に出ていた父寅蔵さん=当時(47)=は被爆死した。「原爆のことをよく知らない若い人たちに8月6日に合わせて写真を見てもらい、実態を知ってほしい」と願う。写真は資料館に寄贈する。

(2022年8月6日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 証しを残す] 繁華街惨状 伝える7枚 被爆間もない9月までのカットも

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