×

連載・特集

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 加藤友三郎 没後100年 <上> 「軍拡より協調」今こそ光を

 広島出身で初の内閣総理大臣になった加藤友三郎(1861~1923年)は、ことし没後100周年を迎える。第1次世界大戦後のワシントン会議で日本の首席全権に任じられて大胆な軍縮を決断し、直後に首相として大正時代の難局に挑んだ海軍軍人・政治家。戦後の広島で埋もれがちだった業績をたどり、目先の軍備増強より国際協調を重んじた姿勢に今だからこそ光を当てたい。

 広島の比治山公園に残る、あるじなき巨大な台座を訪ねた。加藤の銅像はこの上にそびえていた。1935年の建立で彫刻家上田直次の渾身(こんしん)の作。その8年後に第2次世界大戦中の金属供出に遭い、台座は原爆の閃光(せんこう)を浴びる。

 没後5年を記念する「元帥加藤友三郎伝」に人となりは詳しい。広島藩士の家に生まれ、海軍軍人となった加藤が名を上げたのは連合艦隊参謀長として臨んだ日露戦争だ。日本海海戦で旗艦三笠に乗り、東郷平八郎の下で指揮を執って勝利に貢献する。海軍次官、呉鎮守府司令長官を経て海軍大臣を8年務めたのは軍政家としての実力ゆえか。それを国際政治に生かしたのがワシントン会議である。参戦国の総力戦の末に第1次大戦が終結し、平和と安定が求められていた。

 米国が主導して21年11月から3カ月にわたり開かれた会議は大戦の講和、国際連盟の創設に続いて国際秩序の構築を論じた。米英仏や日本、中国など9カ国が参加したが、アジア太平洋地域への日本の勢力拡大を警戒する米国が提案してきたのが海軍の大幅な軍備制限である。

 向こう10年、建造中、計画中の主力艦は断念し、保有比率は米・英・日で5・5・3とする―。加藤は東郷の信頼を背に「譲っても対米で7割」とする自国の強硬論を退けた。太平洋地域で米英の軍備強化に歯止めをかけることなどを条件に軍縮条約調印に踏み切る。

 大戦で疲弊した各国の情勢をにらみ、協調外交を掲げた加藤は難しい立場にあった。大戦景気の税収増にも乗じた艦船建造方針「八八艦隊」を推進した当の大臣だったからだ。米国を仮想敵に、戦艦8隻・巡洋艦8隻という編成へと海軍力を強化する構想を実行に移す段階で、自ら白紙に戻す決断を下したのだ。

 「外交手段ニ依リ 戦争ヲ避クルコトガ 目下ノ時勢ニ於イテ 国防ノ本義ナリト信ズ」。会議さなか、加藤が随員の海軍中佐に伝えた言葉が残る。

 迷走した大正期の政界は加藤を次の舞台に押し上げた。「平民宰相」として知られた原敬首相はワシントン会議の直前に暗殺され、続く高橋是清内閣も短命に終わった。22年6月、加藤は海軍大臣兼任のまま首相に推される。

 確かに波乱なく軍縮を推進するのに加藤は適任だった。施政方針でワシントン会議後の情勢を「世界平和の曙光(しょこう)」と表現した加藤は、条約批准に続いて旧艦14隻の廃棄と建造計画中止を断行し、海軍の機構改革を進めて海軍工廠(こうしょう)を含め、大幅に人員を整理した。条約対象外の陸軍の整理縮小も着手し、ロシア革命に乗じてソ連に7万人以上を送って「米騒動」を招いたシベリア出兵も中止した。

 歳出の半分近くを占めた軍事費を削って民生や教育、産業振興に振り向けた。設立が難航した旧制広島高校の実現も、彼のおかげ。古里でそう称賛されてきた加藤も近現代史での注目度は低い。詳述で知られる山川出版社の高校教科書「詳説日本史B」は加藤に少し触れるだけ。暗記項目を減らした「歴史総合」の同社教科書には、名前すらない。

 ワシントン会議への評価も分かれてきた。協調外交の先例とされる半面、陸海軍に不満を生み、8年後のロンドン軍縮条約を巡る国内対立、その翌年の満州事変に結びついて日本は孤立し、長い戦争への道を走る。しょせん、その場しのぎの枠組みだったとの見方もある。

 加藤の実像を歴史研究の視点で見つめ直したいと思った。評伝は幾つかあるが論考はそう多くない。政治史で第一人者の御厨貴・東京大名誉教授が編者の「歴代首相物語」という本があった。そこで加藤首相の部分を執筆した東京の亜細亜大法学部、今津敏晃准教授を訪ねた。

 ワシントン会議は講義でも取り上げ、次の点を強調するという。「決定内容に不満を持つ勢力が国内に発生した面はあるが、10年間の平和と安定をもたらした意義は大きい。批准後の軍艦の解体まで実行できたのは加藤の指導力があったからこそ」。前向きな評価に安心する。

 一方で、今津准教授は「加藤は平和主義者だから軍縮を推進したのではなく、そこに合理性があったから」と冷静に捉える。当時の日本を見るとトータルでは軍縮になっていても、減らした予算の一部を使って達成したかった装備の充実、補充ができた面もあるという。陸海軍とも実は取った、というわけだ。

 あまり語られない加藤の経済政策はどうだったか。それを分析する数少ない研究者にも会った。大阪の桃山学院大経済学部、望月和彦教授である。著書「大正デモクラシーの政治経済学」で加藤の財政金融政策を論じ、「中途半端なものにとどまった」と少々辛口で評する。

 望月教授によれば加藤内閣は暗殺まで3年余り在任した原首相の経済政策を継承した。当時の立憲政友会を率いた原のような政党内閣ではなく貴族院議員が中心の組閣だったが閣外協力の政友会から影響を受けた。教育振興、交通網整備、産業奨励、そして国防充実―。原内閣が掲げた4大政策のうち軍事費以外は同じ路線を取ることになったという。

 ワシントン会議の頃は大戦景気の終焉(しゅうえん)を経て再び空前の好景気となった「大正バブル」が崩壊し、緊縮財政や不良債権処理が求められていた。「米英よりはるかに日本は軍事費の国民負担率が高く、軍拡は予算的にやっていけないと加藤は分かっていたはず。軍縮には国家の税収減という内的必然性があった」

 望月教授はこうも読み解く。民生や教育に予算を振り向けたのも、票田を意識する政友会の歳出圧力で軍事費以外は緊縮できなかった結果では、と。たばこ定価引き下げなど19項目の物価調整策を示し、わずかだが減税や郵便貯金利子の引き上げをした加藤内閣は「国民の負担軽減を」の思いはあったが、財政政策では十分な成果が出せなかったという。

 加藤を取り巻く政治状況は簡単なものではなかったことが分かる。軍縮の功績のみならず首相としての生身の苦労も、語り継ぐべきなのだろう。首相在任1年2カ月。健康に不安があり、細身の体で「残燭(ざんしょく)内閣」とやゆされた加藤は23年8月24日に大腸がんで道半ばのまま死去する。直後の関東大震災で日本は新たな試練を迎え、やがて暗い時代へ向かう。

≪加藤友三郎とその時代≫

1861年 加藤友三郎生まれる
  94年 日清戦争始まる
1904年 日露戦争始まる
  05年 加藤、連合艦隊参謀長に
      日本海海戦
  06年 加藤、海軍次官に
  14年 第1次世界大戦始まる
  15年 加藤、海軍大臣に
  17年 ロシア革命
  18年 日本がシベリア出兵
  19年 パリ講和会議
  21年 ワシントン会議始まる
  22年 海軍軍縮条約調印
      加藤内閣発足
  23年 加藤死去、元帥に
      関東大震災
  25年 日ソ基本条約
  30年 ロンドン軍縮会議
  31年 満州事変

(2023年1月3日朝刊掲載)

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 加藤友三郎 没後100年 <下> 先見性と大局観に学びたい

年別アーカイブ