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[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 加藤友三郎 没後100年 <下> 先見性と大局観に学びたい

 広島の地に生まれ、大正時代に日本の軍縮を進めた海軍軍人で首相を務めた加藤友三郎。戦後の平和都市ヒロシマではあまり光が当たらなかったが、ここにきて銅像建立など再顕彰の動きも目立ち始めた。折しも郷土出身宰相の後輩に当たる岸田文雄首相の手で、防衛力の大幅強化の議論が進む。加藤の没後100年を前に、現代の政治に導くべき教訓をさまざまな視点で考えておきたい。

 東京・青山霊園の加藤友三郎の墓所に参った。墓石の正面と向かい合うように六本木ヒルズが遠くに見えた。

 すぐ近くにある明治の政治家、小村寿太郎の墓と比べると目立たなかったが、2019年に生前の業績を日英両文で記した案内板が設置された。海軍史の発信を続ける呉市の大之木ダイモ社長、大之木小兵衛さんが会長の「加藤友三郎元帥研究会」の手によるものだ。

 加藤を再評価する声は21世紀になって強まる。05年にNHKの人気番組「その時歴史が動いた」で1921~22年のワシントン会議で軍縮を決断した加藤を英雄として描いたのも大きかった。

 広島に何度か招かれ、日本の外交における加藤の役割について講演した歴史研究者がいる。外務省外交史料館課長補佐の白石仁章さんを訪ねた。「命のビザ」で名高い杉原千畝に関して幾つも著書がある外交文書のプロである。

 「あの時代、一部の人だけが持ち得た優れた先見性を加藤は持っていた」と白石さん。国防と外交のバランスを巧みに取る国際感覚も魅力という。ワシントン会議で日本が迫られた「主力艦は対英米比で6割」という海軍軍縮条約は全権団に反対もあったが「きっちりと説得し、まとめた政治的手腕は見事」と言う。

 白石さんはもう一つの功績にも注目する。ワシントン会議で除外されたソ連との関係改善である。加藤は22年の首相就任間もなく国内外の非難を浴びたシベリア出兵を撤退させる。「そのことは従来以上に評価されていい」。首相となってソ連との国交回復を重要懸案としたことが外務省文書で読み取れるという。

 加藤が起こした流れは次の内閣以降に着実に引き継がれた。25年には日ソ基本条約が結ばれ、やがて協調関係が生まれる。白石さんが歴代首相でベスト3に入れたいという加藤が早く没し、業績が埋もれがちなのは「非常に惜しい」。

 そんな人物の足跡が広島の戦後復興の中で置き去りにされたのは、なぜか。

 著書「わが国の軍備縮小に身命を捧げた加藤友三郎」のある広島の郷土史家、田辺良平さんに聞いてみた。「軍人という先入観が強過ぎたのでは。被爆地で軍人の業績を語ること自体がそぐわない、と考えられてしまった」

 田辺さんは、加藤の再顕彰に深く関わる。今はサッカースタジアム工事で一時撤去されたが、広島の中央公園広場にはワシントン会議当時のフロックコート姿の銅像が2008年に建立された。第2次世界大戦中の金属供出で失われた比治山公園の銅像に代わる「銅像復元」であり、田辺さんはその委員長だった。翌年設立されたNPO法人の「加藤友三郎顕彰会」でも副理事長の任にある。

 田辺さんによると、平和都市での受け止めを象徴する一つが加藤の生誕地の記念碑だという。広島の中電病院に近い大手町第2公園の一角にある。戦前の1930年に建立され、被爆後の広島で旧軍関係物として埋められてしまう。郷土史家の願いで掘り出され、造り直して再建立したのが80年。顕彰会は往時の生家一帯の地図を付けた碑の説明板を8年前に設置したが、訪れる人は少ない。

 碑前に立ち、加藤の生い立ちに思いをはせた。地図上の小さな家に加藤種之助の名がある。微禄ながら広島藩の学問所で教えた父が幼い頃に死去し、代わって養育してくれた17歳上の兄である。藩の改革派の一員で戊辰戦争に加わり、現在の福島県浜通りで負傷しながら戦った。新政府が西郷隆盛軍と対した西南戦争にも広島から参戦している。

 そんな兄に影響を受けた加藤は「ひいかち(かんしゃく持ち)の友公」と呼ばれ、わんぱくな子だったらしい。明治初めに兄と上京し、海軍兵学寮に入る。海軍において艦船の砲術畑を進み、薩長藩閥の下で日が当たらなかった広島藩出身者としては異例の出世を遂げる。

 兄に聞いた幕末以来の苦労や戦場体験をどう糧にしたのか。想像するしかないが、いつしか幅広い視野を持ち、理想だけに流されずに現実を見据えて協調を重んじる軍政家に成長する。英語も堪能だったようだ。もし長生きしていれば日本はどうなったか、と考えたくなる。

 首相退任後も海軍の重鎮として国際協調からの逸脱に歯止めをかけていたら。加藤が国力の差を認識し、経済面のつながりを重視した米国との関係が安定していたら―。田辺さんは「日本の運命は変わっていた。広島に原爆が落ちることもなかったかもしれない」と考える。

 昨年12月上旬、ワシントン会議と加藤の首相就任100周年を記念する式典が呉市の入船山記念館で営まれた。大之木さんたちの銅像保存会が主催し、東京在住のやしゃご加藤健太郎さんも招いた。加藤が明治末期から4年務めた呉鎮守府司令長官の官舎がここに現存し、そばに長官時代の正装「大礼服」姿の銅像を研究会が2020年に建立したばかりだ。

 この式典では伊藤弘・海上自衛隊呉地方総監のあいさつが目を引いた。「国防ハ軍人ノ専有物ニ在ラズ」。ワシントン会議における加藤の名言を引用した伊藤総監は安全保障関連3文書の改定についても触れ、「今ほど、この言葉の重みを感じる時はない」と口にした。

 誰あろう、岸田首相も祝電を寄せた。「やみくもに軍備を増強するのではなく国力全体を充実させ、外交の力で国家間の安定を図ろうとした」と加藤の外交姿勢を称賛した上で「私自身、大いに学ぶところがある」と付け加えた。

 向こう5年の防衛費を従来の1・5倍の43兆円に増やし、防衛増税を打ち出した岸田政権。抑止力向上は外交の説得力につながる、との論理を首相は唱える。それは「やみくも」ではない、と言えるのかどうか。安全保障環境が悪化する今の日本は100年前と状況は違う。それでも加藤軍縮のプロセスは限界も含め、今こそ多角的に掘り下げるべきだ。

 加藤の実像をどう語り継ぐか。考える中で大之木さんにもらったメールに共感した。「単に軍縮=平和というだけでなく加藤友三郎の大局的な視野と徹底したリアリズムに私はすごみを感じる」

 現代の政治が加藤に学ぶとすれば目先の情勢より先の先を見据え、現実的な解を出す姿勢ではないか。「第二の加藤」が現れない日本が坂道を転がり落ちた、あの戦争の時代をあらためて思う。

≪加藤友三郎の生涯と広島≫

1861年 広島城下の大手町に生まれる
  68年 兄種之助、戊辰戦争へ
  73年 海軍兵学寮へ進む
  77年 種之助、西南戦争へ
  80年 海軍兵学校卒業
  94年 吉野の砲術長として日清戦争へ
1905年 連合艦隊参謀長として日本海海戦へ
09~13年 呉鎮守府司令長官
  15年 海軍大臣
  21年 ワシントン会議全権
  22年 内閣総理大臣に任命
  23年 62歳で死去、海軍葬
  28年 「元帥加藤友三郎伝」発刊
  35年 比治山に銅像
  43年 金属供出で銅像撤去
2008年 中央公園広場に銅像
  19年 東京の墓前に案内板
  20年 入船山記念館に銅像

(2023年1月4日朝刊掲載)

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 加藤友三郎 没後100年 <上> 「軍拡より協調」今こそ光を

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