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[ヒロシマの空白 街並み再現] 写るにぎわい 店名くっきり 創業時の「ちから」店舗も

サミット控え活用期待

 1941~42年に広島市内で撮影され、原爆資料館(中区)が寄贈を受けた写真26枚はネガフィルムが現存し、被爆前の広島県産業奨励館(現中区の原爆ドーム)や本通り商店街(現中区)の様子が鮮明に浮かび上がる。5月に市内での先進7カ国首脳会議(G7サミット)を控える中、核兵器によって一瞬で壊滅させられた街の在りし日の姿を伝える貴重な資料になる。(編集委員・水川恭輔)

 戦前から市内有数の繁華街だった本通り商店街を撮った1枚は、商店街の中央部分を東から西に撮影。拡大すると、小さく写る看板も「金明堂のカステーラ」「山本靴店」などと読み取れる。通りの奥に「閉店時刻午後十時」と書かれた幕がかけられ、夜も人通りが絶えなかったことがうかがえる。

 資料館によると、「タソヤ」の看板がかかるタソヤ百貨店の西隣は、35年にこの地で創業した今のうどんチェーン「ちから」(中区)の店舗。同社によると、戦前の店の写真は社内にも残っておらず、貴重な1枚という。本通り商店街は被爆直前、約160店舗が営業していたとされるが、45年8月6日の米軍の原爆投下で焼き尽くされた。

 撮影したのは古河秀雄さん(2014年に93歳で死去)。「父はとにかく写真が好きで、フィルムを大切にしていた。それが今に役立って良かった」と長男の秀治さん(73)=安佐北区。古河さんは今の同区から米国に渡った移民家庭に21年に生まれ、一度帰国して広島の学校に通った後に再び渡米した。ロサンゼルスの俳優の家で家事の仕事をしながら現地の学校に通学し、寄贈された写真の撮影に使ったカメラは現地で買った。

 41年3月に帰国後、奨励館内の日本貿易振興会社広島支店に就職。その後、原爆投下時は召集されて県外にいたが、市中心部に勤めていた妹を捜して入市被爆した。妹は被爆死した。

 「ここ(奨励館)におったら命はなかった」。古河さんは国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)が公開している証言映像(98年収録)で語っている。資料館によると、同支店は44年春までに別の場所に移転したが、奨励館には原爆投下時も木材関係の統制会社などがあった。「広島原爆戦災誌」(71年刊)は館内にいた約30人が犠牲になったと記す。ただ、今も被害の全容は分かっていない。

 今回の資料館の収集に先立ち、亡き母が古河さんと同支店で同僚だった村輿久美子さん(64)=東区=も協力した。市の被爆体験伝承者を務め、資料を捜す資料館の学芸員と秀治さんとをつないだ。「核兵器の被害はひとごとではないと感じてほしい」。古河さんの写真の活用を期待している。

(2023年1月4日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 街並み再現] 被爆前 ドームの業務風景 産業奨励館で勤務の男性撮影 資料館に寄贈

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