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連載・特集

5・19~21 広島サミットまで あと100日 広島サミット 原点の地で

核の惨禍 「足元」から感じて

 核兵器が一発でも使われれば、どれほど悲惨か―。78年前の米軍の原爆投下により、人類史上初の被爆地となった広島は訴え続けてきた。ウクライナに侵攻したロシアはもとより、あらゆる国の核保有、使用は受け入れられず、廃絶するしかない。広島市での先進7カ国首脳会議(G7サミット)の開幕まで8日であと100日。核兵器のない平和な未来を目指す上での原点の地に、核兵器を持つ米英仏3カ国を含む各国の首脳が初めてそろい踏みする重みを考える。

非人道的な被害 広く長く

 広島サミットの主会場となる広島市南区元宇品町のグランドプリンスホテル広島から北へ5・8キロ。1945年8月6日、米軍が投下した原爆は、市中心部にあった島病院(現島内科医院、中区)の上空約600メートルでさく裂した。

 爆心地から2キロ圏内では、猛烈な爆風で木造建物がことごとく倒壊。原爆の熱線や建物内の火気による大火災が起き、鉄筋建物も内部を焼失した。市の46年8月の調査では、2キロ以内にあった約4万5千戸の約98%が全壊・全焼。市内全約7万6千戸の約92%が、半壊以上の被害を受けた。

 爆心地近くにいた被爆者は、皮膚が黒焦げに炭化するほど焼かれた。大混乱の中、おびただしい遺体が身元確認もできないまま火葬され、平和記念公園(中区)の原爆供養塔には約7万体とされる身元不明の遺骨が眠る。45年末にかけ、出血などの放射線の急性障害が広がり、即死を免れた人の命も奪った。

 市が一般的に示す45年末までの犠牲者数の推計は「14万人(誤差±1万人)」。検証のため、市は犠牲者の名前が書かれた各種資料を集計する動態調査を続けているが、2019年3月末までに確認できたのは8万9025人にとどまる。一家全滅した世帯や朝鮮半島出身者などの情報が足りないとみられる。

 放射線の影響は46年以降も続いた。広島、長崎の医師たちの研究では、白血病の増加は被爆6~8年後にピークを迎え、被爆者の発症率は被爆していない人の4~5倍に達した。その後、肺や胃などの臓器のがんも増加。放射線で遺伝子が傷つけられたのが原因と考えられている。

 被爆50年を過ぎて白血病に移行しやすい骨髄異形成症候群(MDS)の増加も指摘されるようになった。ただ、原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」をはじめ、健康影響は研究途上の点がたくさん残る。

 一発で多岐にわたる非人道的な被害をもたらす核兵器。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の推計では、22年1月時点で9カ国が計1万2705発を持つ。G7参加国では、米国5428発、英国225発、フランス290発。最多は14年にサミットから追放されたロシアの5977発だ。権力者による意図的な使用だけでなく、サイバー攻撃や事故による爆発の危険もある。

 首脳が集う元宇品町には原爆投下後、大やけどの人が何人も運ばれ、次々と息を引き取った。爆心地そばの平和記念公園に至る一つ一つの町にも、奪われた命や被爆者の苦しみが刻まれている。元原爆資料館長で被爆者の原田浩さん(83)=安佐南区=は「限られた時間で資料館を見るだけでは被爆の実態は十分伝わらない」。首脳たちが「足元」から核兵器をなくす必要性を痛感するよう願う。(編集委員・水川恭輔)

一家7人被爆 体験語り始めた内藤さん(84)

「生きてる間に」 決意の証言

廃絶への道 本気で議論を

 広島市南区の被爆者内藤慎吾さん(84)は昨春、体験を語り始めたばかりだ。一家7人全員があの日、原爆に遭った。今も、まざまざと思い出す。全身を焼かれた父の最期、弟や妹を捜す母の鬼気迫る姿…。一人一人の無念を思い、胸がうずく。それでも「生きている間に」との思いに突き動かされる。非人道兵器の廃絶を切望するからだ。

 内藤さんは1945年春、中島国民学校(現中島小、中区)に入学した。両親、兄2人、弟、妹の7人家族。「ごく普通の家族。仲が良く、幸せだった」。吉島羽衣町(現中区)で暮らしていたが、空襲に備え、今の廿日市市に疎開することになった。自宅には、広島逓信局(現日本郵便中国支社)職員だった父の良蔵さん=当時(45)、山陽中1年で長兄の英樹さん=同(13)=の2人が残った。

 8月5日、一家は久しぶりに自宅に集う。良蔵さんの出張が2日後に迫っていた。行き先は「満州国」(現中国東北部)。永遠の別れも覚悟し、全員で食卓を囲んだ翌6日、悲劇は起きる。

 兄2人は早朝、家を出た。英樹さんは、空襲に備えた防火帯を造る作業に駆り出され、市役所近くの雑魚場町(現中区)へ。次兄の隆大さん=同(9)=は、中島国民学校に向かった。内藤さんは家の縁側で、弟の睦郎ちゃん=同(4)、妹の久実子ちゃん=同(2)=と遊び始めた。

 原爆がさく裂したのは、庭の防空壕(ごう)そばにカニがいるのを見つけ、近寄った瞬間。内藤さんは壕内に吹き飛ばされた。こわごわ外に出ると、庭には立ち尽くす父の姿。全身やけどを負っていた。母寿恵子さん=当時(39)=は、つぶれた自宅の上にいた。その鬼のような形相にぎょっとした。髪を振り乱し、瓦を引き剝がしている。ついには、血だらけの弟と妹を両脇に抱えて降りてきた。

 火の手が迫る中、陸軍吉島飛行場(現中区)を目指したが、父は歩くのもやっと。手を引こうとすると、皮がずるりとむけた。たどり着いた時、弟と妹は既に息がなく、倒れ込んだ父も10日に絶命した。「天皇陛下万歳」が最期の言葉だった。

 兄2人も奪われた。隆大さんとは11日、奇跡的に再会。共に疎開先へ引き揚げたが、30日に入院先で息絶えた。最期の時、内藤さんは病室に入らなかった。「母に呼ばれたが、薄情にも聞こえないふりをしたんです」とうつむく。まだ6歳。家族の死を見るのが、もう耐えられなかった。

 英樹さんは14日に亡くなっていた。母が疎開先から市街地に通い詰め、9月のある日、遺骨の入った日付入りの箱を見つけてきた。「一人寂しく死なせた」。母はそう言って泣いた。

 戦後、働きづめだった母の姿も忘れない。小柄な体で工場の力仕事を続け、私立中に入れてくれた。しかし被爆の影響か、不調が目立つように。53年、工場から帰宅後に急逝。47歳だった。内藤さんは中学3年で独りぼっちになった。

 親戚の援助で高校を出た後、内藤さんは電力会社に就職。結婚し、娘3人を授かった。家族にも語ってこなかった記憶の封印を解いたのは、80歳を超え、人生を振り返る時に「あの日」を避けて通れないと気付いたから。夢枕に立った両親にも促されたという。

 そして昨年8月6日、思わぬ機会を得た。広島市の平和記念式典に参列した国連のグテレス事務総長に、被爆者代表の一人として対面したのだ。国連総会は46年に初めて採択した決議で、全ての核兵器と大量破壊兵器の廃絶を掲げた。にもかかわらず、多くの国が核に固執し、ウクライナに侵攻したロシアは使用までほのめかしている―。保有国の権限が強く、事態を打開できない国連の組織改革を、内藤さんは直言した。

 広島サミットを前に、首脳たちへは原爆資料館(中区)を見学し、被爆者の声に耳を傾けるよう求める。「結束を見せつけるだけなら、ロシアや中国は反発する一方。核被害の実態に触れ、平和への道を本気で考えないなら、広島で開く意味はないです」。聞きたいのは、核廃絶に向けた真の決意だ。(編集委員・田中美千子)

被爆者の肉声 限られた時間 手帳所持者 最多の3分の1以下

 広島、長崎の被爆者は心身を削り、つらい記憶を語ってきた。他の誰にも二度と同じ思いをさせたくない、との一心からだ。その肉声を聞ける時間には限りがある。厚生労働省によると、平均年齢は2021年度(22年3月末時点)で84・53歳。総数は11万8935人で、最も多かった1980年度(37万2264人)の3分の1を切った。

 この数字で示される「被爆者」は法に基づき、被爆者健康手帳を持っている人を指す。被爆者援護法では①原爆投下時、特定区域にいた直接被爆者②原爆投下2週間以内に爆心地2キロ圏内に入った入市被爆者③看護を担った救護被爆者たち、放射能の影響を受ける事情があった人④母親のおなかの中にいた胎内被爆者―に区分されている。医療費は国の援護策で無料になる。

 原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」に遭い、健康被害を訴えてきた人も多い。集団訴訟を経て、国は指針を見直した。広島原爆による雨を浴びたのを否定できず、特定の病気にかかっている人には、昨年4月から手帳を交付するようにした。

 原爆被害者は、手帳を持つ被爆者だけではない。例えば国の方針に沿い、郊外に疎開している間に家族を失った原爆孤児。2千人とも6500人とも言われる。遺伝による健康への影響の有無は科学的に証明されていないが、不安を抱く被爆2世もいる。

紙面編集・杉原和磨

ヒロシマの声関連]

(2023年2月8日朝刊掲載)

[広島サミット5・19~21] あと100日 被爆3ヵ月後の元宇品 主会場周辺 米軍撮影

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